HISTORICAL PERSON · 1078年没

イジャスラフ1世

キエフ大公。弟たちとの三頭政治や内紛で3度即位・退位を繰り返し、最後は甥オレークとの戦いで戦死した。

生涯
1078年没
死亡地
ウクライナ(チェルニーヒウ州 / Nizhatyna nyva)
出生地
ロシア連邦(ノヴゴロド)
出典
世界地図
ウクライナ(チェルニーヒウ州)

伝記

イジャスラフ1世は1024年、キーウに生まれた。父はキエフ大公ヤロスラフ1世、母はスウェーデン王オーロフの娘インゲゲルドで、洗礼名はディミトリーである。父の長子ウラジーミルは父より先に没したため、イジャスラフが大公位の後継者となった。1043年、ヤロスラフとポーランド王カジミェシュ1世の間で、チェルヴェンをキーウの領地と認める協定が結ばれた。その結び付きを固めるため、カジミェシュはヤロスラフの妹ドブロネガを妻とし、イジャスラフはカジミェシュの妹でミェシュコ2世の娘ゲルトルダと結婚した。1045年から1052年にはトゥーロフ公を務めた。

1054年に父が死去すると、キエフ大公位を継いだ。兄弟たちは遺領を分割し、イジャスラフはキーウ、ノヴゴロド、トゥーロフを得た。弟スヴャトスラフはチェルニーゴフなどを、フセヴォロドはペレヤスラヴリや北東の諸地域を領有し、この3人による共同統治が始まった。イジャスラフは最初のルーシ法典を構成する「ヤロスラフの子らの法」の作成者にも数えられる。また、キーウで洞窟に住んでいた修道士たちに山全体を与え、ペチェールシク修道院の創建に関わった。1060年には兄弟が共に草原へ出兵し、オグズと戦った。

1065年、ポロツク公フセスラフがプスコフを攻め、さらに翌年から翌々年の冬にノヴゴロドを襲った。そこを治めていた息子ムスチスラフはキーウへ逃れた。イジャスラフら3人は反撃に向かい、ミンスクを攻略したのち、1067年3月3日にネミガ川でフセスラフを破った。同年6月10日の停戦時、イジャスラフは相手を陣営に招きながら捕らえ、その息子2人と共にキーウへ連行した。ところが1068年、兄弟の軍はアルタ川でクマン人に敗北した。キーウの民会が再出撃を求めてもイジャスラフが応じなかったため、住民は蜂起し、幽閉中のフセスラフを解放して新しい公に立てた。

ポーランドへ逃れたイジャスラフはボレスワフ2世の援軍を得て帰還した。フセスラフが夜のうちに町を去ると、弟たちは報復を控えるよう求めたが、イジャスラフはムスチスラフを先遣し、有力者への処刑や失明刑を行わせた。1069年5月2日までにキーウへ戻ったものの、ノヴゴロドではスヴャトスラフの息子グレプが公となっていた。代わりにムスチスラフが得たポロツクも、弟スヴャトポルクの代にフセスラフに奪回された。1072年には兄弟で、ボリスとグレプの聖遺物をヴィシゴロドの新しい教会へ移す式典を主宰した。

1073年3月22日、スヴャトスラフとフセヴォロドに追放され、再びポーランドへ向かったが、今度は援助を得られなかった。1075年1月にはマインツでドイツ王ハインリヒ4世に支援を求め、息子ヤロポルクをローマへ送って教皇グレゴリウス7世にも働き掛けた。1076年にスヴャトスラフが死去するとフセヴォロドと和解し、1077年7月15日にキーウへ帰還した。1078年、フセヴォロドと共にスヴャトスラフの息子オレークと戦い、10月3日に戦死した。息子にはムスチスラフ、ヤロポルク、のちに大公となるスヴャトポルクがおり、娘エウプラクシアはボレスワフ2世の息子メチスワフに嫁いだ。

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