伝記
ハーバート・スペンサーは、1820年4月27日にイングランドのダービーで、非国教徒の家庭に生まれたイギリスの哲学者、社会学者、倫理学者である。父ジョージはメソジスト派からクエーカーに改宗した人物で、息子にあらゆる権威に対抗する心性を伝えようとした。ペスタロッチの進歩的な教授法に基づく学校を経営し、チャールズ・ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンが設立したダービー哲学協会の書記を務めた。ジョージは息子に、エラズマス・ダーウィンやラマルクの進化の概念を伝えた。はじめは父の方針で学校教育を受けず、家庭で教育を受けたが、のちに叔父トーマス・スペンサーの経営する寄宿学校で、ラテン語や数学、物理学などを学んだ。叔父は甥に、自由貿易と反国家主義的な政治見解を教えた。
1837年、17歳でロンドン・バーミンガム鉄道の技師として働き始め、空いた時間に著作活動を行った。1840年ごろ、鉄道工事の現場を見て地質学に関心を持ち、ライエルの『地質学原理』を手にして、その中でラマルクの進化思想が批判されていたことから、ラマルクを知った。1843年に最初の著作『政府の適正領域』を刊行した。1846年には骨相学に傾倒し、頭骨を測る装置を設計するほど入れ込んだ。1848年から1853年は経済誌『エコノミスト』の副編集長を務め、その間の1851年に最初の本『社会静学』を出版した。人間性が社会生活の要求に応えるようになれば、国家は衰退すると予見し、第16章では、「平等な自由の原理」の一環として男女の平等を論じた。
出版者ジョン・チャップマンのサロンで、ジョン・スチュアート・ミルやメアリー・アン・エヴァンス(ジョージ・エリオット)らロンドンの急進的な思想家と知り合い、ハクスレーとも親交を深めた。エヴァンスらとの縁でミルの『論理学体系』やコントの実証主義に出会ったことが、生涯の仕事を決めたといえる。1853年に叔父の遺産を相続すると副編集長を辞め、在野の研究者として著述に専念した。1855年に『心理学原理』の初版で精神の現象を進化論的観点から説明し、1857年に『進歩について』で進化論の同質性から多様性への発展を論じた。
1858年に、進化の原理が生物学だけでなく心理学や社会学や道徳にも適用できることを実証するため、「総合哲学体系」の研究計画を発表した。当初は20年とみられた出版計画は、40年かけて完成することになる。1862年に『第一原理』を発刊し、『生物学原理』『心理学原理』『社会学原理』『倫理学原理』と刊行して1896年に完結させ、自然、生物、人間社会を貫く原理として「進化」を掲げた。ダーウィンの『種の起源』を読んで、自然選択説を「適者生存」と言い換えたことで知られる。1870年代には、もっとも有名な哲学者となり、著作は多くの言語に翻訳された。1882年にアメリカを訪れて熱狂的な歓迎を受け、読者はイギリスよりアメリカに多かった。
『社会静学』では「他の人々の同様な自由だけによって制限される平等な自由」という古典的自由主義の原理を提唱した。晩年は幻滅と孤独感を深め、心気症気味だったと伝えられる。生涯結婚せず、政治への姿勢はしだいに保守的になり、かつて支持した女性参政権にも反対するようになった。1903年12月8日に83歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ガストン・パリス (1903年没)
- フーゴ・ヴォルフ (1903年没)
- ポール・デュ・シャイユ (1903年没)
- ジェンマ・ガルガーニ (1903年没)
- アルベルト・シェフレ (1903年没)
同じ地域に関係する人物
- スパイク・ミリガン (2002年没)
- ハロルド2世 (イングランド王) (1066年没)
- ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ (1882年没)
- ジェームズ・キャラハン (2005年没)
- アーサー・コナン・ドイル (1930年没)