伝記
アンティゴノス2世ゴナタスは、アンティゴノス朝マケドニアの王である。紀元前319年ごろに生まれ、紀元前239年に没した。在位は紀元前277年から紀元前239年。祖父は隻眼王アンティゴノス1世、父は攻城者と呼ばれたデメトリオス1世であり、母フィラは、アレクサンドロス大王の死後に帝国の摂政として権勢をふるったアンティパトロスの娘である。マケドニア王となったカッサンドロスは母方の叔父にあたる。父方・母方の両方からディアドコイ(後継者)の血を引いていた。
彼が生まれた年にアンティパトロスが没し、領土と支配をめぐる争いはさらに激しくなった。祖父アンティゴノス1世は大王の帝国の再統一に最も近づいたが、紀元前301年のイプソスの戦いで敗死し、その領土は敵対していたカッサンドロス、プトレマイオス、リュシマコス、セレウコスの間で分けられた。当時18歳のアンティゴノス2世の運命は、戦場から逃れた父デメトリオスと固く結びついていた。デメトリオスはアテナイを征服し、紀元前294年にはカッサンドロスの子アレクサンドロスからマケドニアの王位を奪った。アンティパトロスの孫でカッサンドロスの甥にあたるアンティゴノス2世の存在は、これら旧王の支持者を父の支配になじませる助けになったという。
紀元前292年、デメトリオスはリュシマコス捕縛の報を聞いて北へ急ぎ、ボイオティアの軍の指揮は息子に任された。留守中にボイオティア人が反乱を起こしたが、アンティゴノスはこれを破り、テバイに封じ込めた。トラキア遠征に失敗した父がテバイ攻囲に加わると、デメトリオスは勝ち目の薄い攻撃を兵に繰り返させた。息子が犠牲の多さを父に問うと、「死者に食糧を探してやる必要はない」と答えたと伝えられる。紀元前291年にテバイは落ちた。デメトリオスは大王の帝国の復活をめざして500隻の艦隊を建造させ、これに脅威を感じたセレウコス、プトレマイオス、リュシマコス、ピュロスが同盟を結んだ。紀元前288年にはリュシマコスとピュロスがマケドニアを攻めた。デメトリオスは息子にギリシアの残りを任せてマケドニアへ急いだが、紀元前287年にピュロスがベロイアを奪うと、軍は敵に寝返った。デメトリオスはアテナイを包囲したのち、リュシマコスの領地を攻めに向かい、息子にギリシアでの戦争を託した。父がセレウコスとリュシマコスの軍に追われる間、息子はギリシアでプトレマイオスの艦隊を撃退し、アテナイを降伏させた。紀元前285年、デメトリオスはセレウコスに降伏した。
その後、アンティゴノス2世はケルト人の侵略を撃退し(紀元前279年、紀元前277年)、アンティパトロス朝のソステネス王の殺害後にマケドニア王となって、父の死で途絶えていたアンティゴノス朝を復活させた(紀元前276年)。紀元前274年にはエピロス王ピュロスに一時王位を追われたが、ピュロスの死後に回復した。アンティゴノス朝の強大化とエーゲ海制覇を恐れたスパルタ王アレウス1世が、アテナイやプトレマイオス朝エジプトと結んで打倒をはかり、クレモニデス戦争(紀元前267年から紀元前261年)が起こったが、アンティゴノス朝が勝利し、紀元前255年にプトレマイオス2世と和議を結んだ。これでギリシアでの覇権を確立した。その後も甥アレクサンドロスの反乱やアカイア同盟との戦争が続き、苦戦した。ストア派の哲学者ゼノンの影響を受け、詩人アラトスらを宮廷に招くなど文芸の保護にも熱心だった。姉妹ストラトニケとセレウコス1世の娘フィラと結婚し、息子デメトリオス2世をもうけた。
同じ年に亡くなった人物
- プトレマイオス1世エピゴノイ (紀元前239)
- ポセイディッポス (紀元前239)
- 鄒衍 (紀元前 239年)
- アラトス (紀元前 239年)
同じ地域に関係する人物
- ウラジーミル・ブルリューク (1917年没)
- ゲオルギオス・マニアケス (1043年没)
- カッサンドロス (紀元前297年没)
- Pamphilus of Amphipolis (紀元前400)
- フィラ (紀元前286)