伝記
コンスタンティヌス・アフリカヌスは、十一世紀に北アフリカから南イタリアへ渡り、アラビア語の医学書を翻訳した医師である。出生地は現在のチュニジアに当たる地方で、カルタゴともいわれ、生年には一〇一七年と一〇二〇年の説がある。前半生には不確かな点が多く、宗教についても、もとはイスラム教徒だったという話と、カルタゴのキリスト教徒の共同体に属していた可能性とが伝わる。ベルベル人の家に生まれたとする説では、医学を学んだのちバグダードへ赴き、医学やイスラムの諸学問、各地の言語を修め、薬草の交易にも携わったとされる。
イタリアへ移るまでの経緯にも異なる話がある。一つは、シチリアから商人としてサレルノへ来たというもので、このためシチリアのコンスタンティヌスとも呼ばれたという。当地で病気になり診察を受けた際、医師が尿の入った容器を調べようとしないことに気づき、医学の知識が実際的な初歩に限られていると考えたとされる。十分な医学書もないと知り、カルタゴに戻って三年間医学に携わりながら書物を集め、再びサレルノへ向かったという。この航海では嵐に遭い、アリー・イブン・アッバースの医書の一部を失ったとも伝わる。もう一つの説では、カルタゴで医師、医学者として成功したものの、周囲からのねたみによって身の危険を感じ、船で逃れてシチリア経由で南イタリアに落ち着いた。これらの旅行や修学の細部は伝説を多く含むが、北アフリカに生まれ、のちに南イタリアで活動したという生涯の大枠は共通する。
一〇七七年にサレルノ医学校の教師となり、翌年にはさらに優れた医書を求めてギリシャやアラブの各地を訪れたといわれる。南イタリアでは、のちに教皇ウィクトル三世となる修道院長デシデリウスの保護を受けた。当時この地方にはビザンツ文化の影響が残り、デシデリウスのもとでは文芸や美術の活動も進められていた。コンスタンティヌスはやがてモンテ・カッシーノ修道院に住み、修道士として収集した医書の翻訳に取り組んだ。もとイスラム教徒だったとする説では、この移住の過程でキリスト教へ改宗したとされる。サレルノでの活動と翻訳は、同校の名声を高めることになった。
晩年の仕事の中心は、アラビア語で伝えられた医学をラテン語圏へ紹介することであった。ヒポクラテスやガレノスの著作に連なる医学のほか、アリー・イブン・アッバースの『王の書』、イブン・アルジャッザールの『旅人の備え』、イスハーク・イブン・イムラーンの憂鬱症を扱った書物などを翻訳した。一方、その仕事は原著に忠実な翻訳だけではなく、自らの加筆を交えたり、原著者を明示せず自分の名を掲げたりしたとして、後世に批判も受けた。憂鬱症の書を比較すると、構成や概念を共有しながら訳文には相違があることが指摘されている。翻訳の対象となった書物の著者はイスラム教徒に限られなかった。アラビア語の医学は、初期にはネストリウス派のキリスト教徒の著述家たちにも担われ、ギリシャ医学を教育の基礎としていた。一〇八七年にモンテ・カッシーノで死去した。翻訳した医書は中世の医学教育で教科書として使われ、写本はイタリア、ドイツ、フランス、ベルギー、イングランドなどの図書館に伝わっている。
同じ年に亡くなった人物
- ベルタ・ディ・サヴォイア (1087年没)
- シャラモン (ハンガリー王) (1087年没)
- ウィリアム1世 (イングランド王) (1087年没)
- ザルカーリー (1087年没)
- オトン4世 (ブルゴーニュ伯) (1087年没)
同じ地域に関係する人物
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- レオポルト6世 (オーストリア公) (1230年没)
- ウィクトル3世 (ローマ教皇) (1087年没)
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