伝記
ハンガリーのヘレナは、1050年ごろに生まれ、クロアチア王ドミタル・ズヴォニミルの妃となった王女である。ハンガリーのアールパード家に属し、父はベーラ1世、母はポーランド王女リヘザであった。母方の祖父はポーランド王ミェシュコ2世で、家系はブルガリアの皇帝サムイルにもつながるとされる。兄弟にはハンガリー王ゲーザ1世とラースロー1世、王子ランペルトがおり、姉妹のソフィアはヴァイマール・イストリア辺境伯の妻となった。ヘレナの姪エイレーネーは、のちにビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスの母となる女性であった。
1063年ごろ、遠い親類でもあるズヴォニミルと結婚した。夫はトルピミロヴィチ家に属し、この縁組を通じてハンガリーだけでなく、ポーランドやビザンツ帝国とのつながりも得た。夫妻の息子ラドヴァンは若くして没し、12歳だったとも、十代の終わりから二十代初めだったともいわれる。娘にはクロアチアの貴族女性となったクラウディアがあり、ヴィニツァという娘もいたとされる。1075年に夫が王位に就くとヘレナは王妃となった。クロアチアの人々に親しまれ、イェレナ・リエパ、すなわち「美しいヘレナ」と呼ばれた。王妃として相当の影響力を持っていたと考えられている。
1089年に夫が死去すると、王位を自分の兄弟であるハンガリー王ラースロー1世へ渡そうと、ひそかに働きかけたとされる。若くして息子を失っていたヘレナは、王位を受け継げる子を欠いていた。兄に援助を求め、ラースローは軍を率いてクロアチアへ入り、その支配を拡大した。ズヴォニミルの死を1091年とする説もあるが、いずれにせよ、この継承問題はハンガリー王家がクロアチアへ進出する契機となった。ヘレナ自身も1091年ごろに死去した。
王位継承をめぐる戦争と混乱は、その死後も続いた。1095年にラースローが没すると、ヘレナの甥でゲーザ1世の息子にあたるカールマーンが後を継いだ。一方、クロアチアの貴族の一部はペタル・スヴァチッチを王として選び、ハンガリー王の権威を認めなかった。1097年にはグヴォズド山の戦いでハンガリー軍がこの王を破った。こうした争いを経て、クロアチアとハンガリーは共通の王をいただく関係となり、その結びつきは1918年まで続いた。
同じ年に亡くなった人物
- ワッラーダ (1091年没)
- Artuk Bey (1091年没)
- ディルク5世 (ホラント伯) (1091年没)
- アデライデ・ディ・トリノ (1091年没)
- スティエパン2世 (1091年没)
同じ地域に関係する人物
- Vazul (1037年没)
- ハイナルド・ラヨシュ (1891年没)
- バウエル・ルドルフ (1932年没)
- コンラート1世 (バイエルン公) (1055年没)
- ベーラ3世 (ハンガリー王) (1196年没)