伝記
ステパン2世は、トルピミロヴィチ朝最後のクロアチア王で、1089年から1090年末または1091年初めまで統治した人物である。ペタル・クレシミル4世の近親者で、父をその弟ゴイスラヴとする説や、チャスティミルとする説がある。1066年ごろには、クレシミル4世のもとでクロアチア公の地位にあった。王の後継者となるはずであったが、1075年には人々と聖職者が別の候補を支持した。その結果、かつてスラヴォニアのバンを務めていたドミタル・ズヴォニミルが王となり、ステパンは王位から遠ざけられた。ズヴォニミルも同じ王家の傍系で、スヴェトスラヴ・スロニャの子孫にあたった。
ステパンはスプリト近郊、ススティパン半島の聖ステパノ修道院へ退くことになった。隠退の表向きの理由は病気であった。1078年の証書では、自らをかつて輝かしい地位にあったクロアチアの公としながら、重病に苦しみ、罪を癒やす道を聖職者に求めたと述べている。聖職者の助言に従って修道院へ運ばれ、そこで栄誉を手放し、修道院長に祈りのうちで思い起こしてもらうことを願ったという。政治の中心から離れた生活は、その後も続いた。
1089年にズヴォニミルが後継者を残さず死ぬと、王位の継承をめぐって有力者の対立が起きた。最終的に貴族と聖職者は、王家に連なるステパンに即位を求めた。このころには高齢で健康状態も悪かったが、勧めに応じて修道院を出て、王位に就いた。世襲の権利を持つ人物として承認され、「クロアチア人とダルマチア人の王」を称した。在位は2年に満たず、その多くを以前と同じスプリト近くの修道院で過ごした。自身を長く受け入れた修道院を支え、院長にはラドニの王領を寄進した。一方、前王の妃イェレナは、その兄弟であるハンガリー王ラースロー1世にクロアチア王位を継がせようと働きかけていたとされる。
1090年12月、または1091年の初めに、後継者を残さず死去した。その死後、クロアチアでは再び戦乱が起きた。イェレナの働きかけによってラースローは北部に勢力を伸ばし、南部の貴族は1093年にペタル・スナチッチを王に選んでハンガリー側と対立した。1097年のグヴォズド山の戦いを経て、1102年にはカールマーンのもとでクロアチアとハンガリーが同じ君主をいただくことになった。ステパンは、中世クロアチア王国の全域を治めた最後のクロアチア出身の王でもあった。
同じ年に亡くなった人物
- アデライデ・ディ・トリノ (1091年没)
- ワッラーダ (1091年没)
- Helen of Hungary (1091年没)
- ディルク5世 (ホラント伯) (1091年没)
- Artuk Bey (1091年没)
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