伝記
ジャン=レオン・ジェロームは、1824年5月11日にオート=ソーヌ県ヴズールで生まれたフランスの画家であり、彫刻家である。歴史や東方(オリエント地域)の描写を得意とした。1841年にパリへ出てポール・ドラローシュのもとで学び、1844年から1845年のドラローシュのイタリア旅行にも同伴した。フィレンツェ、ローマ、ヴァチカン、ポンペイを訪れたが、都市よりもむしろ自然に魅力を感じたという。熱病にかかって1844年に帰国を余儀なくされ、パリに戻ると、他の多くのドラローシュ門下生と同様に、シャルル・グレールの画塾に移り、短期間そこで学んだ。ついでパリ国立美術学校に入学した。1846年には権威あるローマ賞に挑戦したが、最終試験で人物デッサンが不適格とされて落選した。
技術向上をめざして描いた習作『闘鶏』(1846年)は、裸身の若者と薄物をまとっただけの娘が闘鶏を眺める作品で、背景にはナポリ湾が見える。1847年のサロンに出品されて銅賞を獲得し、グレール画塾から興った新ギリシア運動の代表作と見なされて、詩人で批評家のテオフィル・ゴーティエに支持された。一躍有名になったジェロームは、ローマ賞獲得の夢を捨て、新たな主題で次々と作品を発表した。1848年のサロンでは銀賞を獲得している。1852年には、ナポレオン3世の美術総監の注文で、歴史画の大作『アウグストゥスの時代』を制作した。キリストの生誕の場面と、ローマ帝国に征服された国々がアウグストゥスを表敬訪問する場面を組み合わせた絵画である。支払われた多額の頭金を利用して、1853年に俳優エドモン・ゴーとコンスタンティノープルに旅行し、以後、数回にわたり東方を旅した。1854年にオスマン帝国治下のトルコとドナウ川流域を旅した際、ロシア軍に強制徴募された住民が、野営地で音楽を演奏させられているのを目撃した。これが、同時代の異文化圏を主題とする風俗画を描き始めるきっかけとなった。
1856年にエジプトを初めて訪れ、以後、アラブの宗教や風俗、北アフリカの風景を描いた絵画を数多く手がけた。1857年のサロンに、『砂漠を横断するエジプトの新兵』『メムノンの巨像』など、より一般受けする主題の作品を出品して、大いに名声を高めた。1859年の『カエサル』では、古典古代を描く絵画への回帰を試みたが、公衆は関心を示さなかった。私生活では、国際的な美術商アドルフ・グーピルの娘マリーと結婚し、四女一男をもうけた。1865年、5回目の立候補でフランス学士院に選出された。1869年にはイギリス王立芸術院の名誉会員となり、スエズ運河の開通式にも招待された。1867年の『ネイ元帥の死』は、苦い国民的記憶を呼び覚ますという理由で、出品を取りやめるよう公的圧力がかかった。
彫刻家としても成功し、最初の彫刻は、地に倒れた敵を足で踏みつける剣闘士の大型ブロンズ像で、1878年の万国博覧会で公開された。『ピュグマリオンとガラテア』では、大理石を生身の人間に変える力を持つ彫刻家として自分を描き出した。ジェロームに師事した画家には、オディロン・ルドン、メアリー・カサット、山本芳翠らがいる。1896年の寓意画は、「真実は井戸の底に横たわっている」という言葉に基づくもので、彼は写真の興隆を歓迎し、1902年には「写真のおかげで〈真実〉はついに井戸の外に姿を表した」と述べている。1904年1月10日、アトリエで制作中に息を引き取った。本人の希望で簡潔な葬式が営まれ、モンマルトル墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- カール・アルフレート・フォン・ツィッテル (1904年没)
- ケイト・ショパン (1904年没)
- ポール・クリューガー (1904年没)
- サミュエル・スマイルズ (1904年没)
- ミルティアデス・ゴウスコス (1904年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ・ジファール (1882年没)
- Henryk Dembinski (1864年没)
- フェルナンド・ラングル・ド・カリー (1927年没)
- ピエール=ジャン・ド・ベランジェ (1857年没)
- アナベラ (俳優) (1996年没)