HISTORICAL PERSON · 1095年没

ラースロー1世 (ハンガリー王)

ハンガリー王。前王イシュトヴァーン1世を列聖させて王統の正統性を高め、クロアチアを征服しダルマチアにも勢力を広げた。死後自身も列聖された。

生涯
1095年没
死亡地
スロバキア共和国(ニトラ県 / ニトラ)
出生地
ポーランド共和国(クラクフ)
出典
世界地図
スロバキア共和国(ニトラ県)

伝記

ラースロー1世は、1040年6月27日にポーランドで生まれ、1077年から1095年までハンガリー王を務めたアールパード家の君主である。父はのちのハンガリー王ベーラ1世、母はポーランド王ミェシュコ2世の娘リグザであった。その名前には母方のスラヴ系の伝統が反映され、のちにハンガリーでも広く用いられた。父が王家の争いで国外に逃れていた時期の生まれで、1048年に一家はハンガリーへ戻った。父は兄アンドラーシュ1世から国土の三分の一を与えられた。当初この兄弟はドイツからの攻撃に協力して当たり、王国の独立を守ったが、王に息子シャラモンが生まれると継承をめぐる関係が悪化した。1057年、ラースローも父や兄弟とともに、シャラモンの戴冠式に出席した。1059年には再び国外へ出たが、翌年、父はポーランド軍とともに帰還し、兄を破って王となった。

1063年に父が死ぬと、ラースローと兄ゲーザ、弟ランペルトは、ドイツ軍を伴って戻ったシャラモンとの妥協を求めた。しかし父の旧領を保持するという条件は拒まれ、一度はポーランドへ逃れた。その後は援軍を得て帰国し、司教たちの仲介で、王を認める代わりに父の旧領を受け取る協定を結んだ。1068年には兄弟や王とともに、トランシルヴァニアへ侵入したペチェネグ人をケルレシュで破った。この戦いには、連れ去られかけたハンガリーの少女を敵兵から救ったという伝説が結びついている。このころ、ドイツの伯の娘とみられる女性を最初の妻に迎えた。1071年以降、ベオグラード攻略の戦利品などをめぐって王と兄弟の仲は崩れた。1073年には双方が戦争に備え、ラースローはモラヴィアへ援助を求めに赴いた。

やがて王となった兄ゲーザ1世が死ぬと、1077年にラースローが即位した。兄の息子たちに代わって一族の年長者を選ぶ、古い慣習に沿う継承であった。内戦の続いた王国では厳しい法を整え、王権の強化を進めた。叙任権闘争では教皇グレゴリウス7世を支持し、ハンガリーに及ぶドイツ王の圧力を軽減しようとした。初代国王イシュトヴァーン1世の列聖も行い、キリスト教化を進めた王への崇敬を、王家の正統性の強化に結びつけたと考えられている。1081年には聖冠を用いた戴冠も行った。西方の混乱を背景に、トランシルヴァニアやドナウ川下流へ勢力を広げた。

娘の一人は1090年ごろにヴォルィーニ公ヤロスラフへ嫁いだとされる。一方、クロアチア王家と姻戚関係を持ち、同国の王位継承が問題になると進出して支配を拡大した。アドリア海沿岸のダルマチア諸都市にも影響を及ぼしたが、同地を求めるビザンツ帝国、教皇、ヴェネツィアなどとの対立を招いた。ウルバヌス2世がダルマチアの支配を認めなかったため、対立教皇クレメンス3世へ支持を移した。男子がいなかったため甥アールモシュを後継者に考えていたが、1095年7月29日に没すると、別の甥カールマーンが王位を得た。遺体はヴァーラドに葬られた。ルドルフ・フォン・ラインフェルデンの娘アデライデとの間に生まれたピロシュカは、のちにビザンツ皇帝ヨハネス2世の皇后となった。王自身は1192年に列聖された。

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