伝記
ウルフスタンは、1008年ごろイングランドのウォリックシャーにあるロング・イッチントンに生まれた。1016年にクヌートが王位に就いたころ、一家は土地を失った。母方の伯父は同名のヨーク大司教であり、その影響でイーヴシャムとピーターバラの修道院に学び、のちにウスターの聖職者となった。献身と貞潔で知られ、上長から司祭になるよう勧められた。1034年にはグロスターシャーのホークスベリーで教会を任された。祈りの最中、近くの台所で焼くガチョウの匂いに心を奪われたことを恥じ、それ以来肉を口にしないと決めたという。1038年に叙階され、ほどなくウスターのベネディクト会修道院に入り、会計係や修道院長代理を務めた。
ウスター司教とヨーク大司教を兼ねていたエアルドレッドが、教皇の要求で司教職を手放すことになると、後任にウルフスタンを選んだ。この就任には、親しい間柄にあったハロルド・ゴドウィンソンも力を貸した。1062年9月8日、ウルフスタンはエアルドレッドによって司教に聖別された。本来ウスターを管轄するのはカンタベリー大司教であったが、当時の大司教スティガンドの聖別には教会法上の問題があったため、その手による聖別を避けたのである。ただしヨークへの服従を誓ったわけではなく、ウスターがカンタベリーに属することを認め、後にスティガンドの後任ランフランクへ服従を表明した。司教としては教区民の世話を重んじ、貧しい人々の苦しみを和らげようとした。奴隷売買にも反対し、ランフランクとともにブリストルからの取引を終わらせるうえで大きな役割を担った。
ノルマン人の征服後も司教座を保ち、征服以前から在任するイングランド生まれの司教のうち、長くその地位に残った唯一の人物となった。1071年から1072年には空席のリッチフィールド教区も管理し、1072年にはウィンチェスターの協定に署名した。1073年にはヨーク大司教トマスを助けてオークニー司教ラドゥルフを聖別した。1075年に有力貴族たちが征服王ウィリアムに反乱を起こすと、ウスターシャーの民兵とともにこれに対抗した。グレート・マルヴァーン小修道院を創設したほか、ウスターやヘレフォードの大聖堂、テュークスベリー修道院など、多くの教会の建て替えに携わった。ウスターの古い大聖堂が新しい建物のため取り壊される際には、敬虔な人々が神に仕えた場所を失うことを嘆き、涙を流したという。
1081年にはダラム司教ウィリアムの聖別にも加わった。ウスター司教が管理するオズワルズローについては、州長官の干渉を受けない権利を主張し、その権利は1086年の土地台帳に記録された。またヘミングにウスターの文書集を編纂させ、数学と天文学に通じたヘレフォード司教ロバート・ロジンガと親交を結んだ。長い病の末、1095年1月20日に死去した。日ごろの習慣どおり、教区民の足を洗っていた最中だったとされる。死後、旧部下コールマンが英語で聖人伝を書き、マームズベリーのウィリアムがラテン語に訳した。1158年の復活祭にはヘンリ2世と王妃エレアノールがウスターの聖廟を訪れ、王冠を捧げた。1203年5月14日、教皇インノケンティウス3世により列聖された。
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