HISTORICAL PERSON · 1097年没

バランゲー・ラモン2世

バルセロナ伯。双子の兄弟ラモン・バランゲーと共同統治したが不仲で、後に兄弟が殺害されると“兄弟殺し伯”と呼ばれ、教皇の仲介で領地分割が行われた。

生涯
1097年没
死亡地
パレスチナ国(エルサレム地区 / 聖地)
出生地
—
出典
世界地図
パレスチナ国(エルサレム地区)

伝記

バランゲー・ラモン2世は、1053年か1054年、バルセロナ伯ラモン・バランゲー1世とアルモディス・ド・ラ・マルシュの子として生まれた。ラモン・バランゲー2世とは双子とされる。父には先妻との子もいたが、その子は1071年にアルモディスを殺害して相続権を失った。1076年に父が死ぬと、バランゲー・ラモンは兄弟と共同で伯領を継承した。父の遺言では同等の条件で支配するはずだったが、実際にはラモン・バランゲーの方が優勢で、二人の関係は緊張していた。バランゲー・ラモンは自分の相続分に異議を唱え、領地と収入の配分をめぐる争いが続いた。

1078年にはリェイダの君主が納める貢納の一部を受け取る取り決めが結ばれた。翌1079年、教皇グレゴリウス7世はジローナ司教に書簡を送り、修道院長たちと協力して伯領の争いを収めるよう求めた。同年、兄弟はウルジェイ平野のシダモンやトレグロッサ、バルベラの谷の城を獲得した。一方で城や所領、家屋を分割することになったが、裁判や課税、市場、通貨などの統治機能は共同のままであった。分割の対象にはリュブラガート川とバゾス川の間の地域、カステルベル、オレルドラなどが含まれた。さらに1080年、バランゲー・ラモンはバルベラ城、ブレダ城の半分、カルカソンヌとラゼスの伯領を得た。将来の獲得地や船も分けると約束され、バルセロナの伯爵宮殿には二人が半年ずつ交替で住むことになった。1081年にエル・シッドがバルセロナを訪れて協力を申し出たが、受け入れられなかった。エル・シッドはのちにサラゴサ王に仕え、1082年のアルメナールの戦いでバランゲー・ラモンを破って捕虜とした。伯は身代金を払って釈放された。

1082年12月5日、兄弟のラモン・バランゲーがグアルバで命を落とした。殺害を企てたのはバランゲー・ラモンだと疑われ、以後「兄弟殺し伯」と呼ばれたが、関与を裏づける証拠はなかった。伯は単独で権力を握り、死んだ兄弟の幼い息子ラモン・バランゲー3世を遠ざけた。1083年にはカルドナとケラルトの子爵らを中心に反対派が結成され、ビック司教もこれに加わった。反対派は甥の後見をサルダーニャ伯らに委ねたが、カルカソンヌとラゼスでも別の子爵が勢力を伸ばし、伯領の支配は揺らいだ。1086年6月18日には従来の反対派が崩れ、新たな勢力との合意によって、バランゲー・ラモン自身が甥の後見人となることを認められた。その条件として結婚しないことを誓い、甥が直接伯位を継ぐ道が定められた。

1087年以降はリェイダの君主やアラゴン王と結び、バレンシア方面への進出を図った。しかし、1090年のテバルの戦いでもエル・シッドに敗れ、再び捕虜となって、コラーダと呼ばれる剣を失った。1092年にはジェノヴァとアラゴン・ナバラ王サンチョ1世の支援を得てトゥルトーザを攻撃し、占領した。やがて甥が成人すると伯領の統治を譲り、1096年に十字軍へ出発した。最期はエルサレムで迎えたとされ、没日は1097年6月20日とも、没年は1099年ともいわれる。公に認められた子孫はなく、伯位は約束どおりラモン・バランゲー3世へ受け継がれた。

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