HISTORICAL PERSON · 1097年没

アヌーシュ・テギーン

セルジューク朝のトルコ人軍人奴隷。ホラズム地方の知事となり、その子孫が後にホラズム・シャー朝を興したことから事実上の創始者とみなされている。

生涯
1097年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アヌーシュ・テギーンは、セルジューク朝に仕えたトルコ系の軍人奴隷である。生年は不明で、ガルチスターン出身の奴隷だったとされ、ガルチャーイーという呼称もその地名に由来する。出自をキプチャク族に求める説もある。名は、イラン系の言葉で不死を意味するヌーシュ、またはアヌーシュと、トルコ語で王子を意味するテギンとの組み合わせである。もとはバルカ・テギンの奴隷で、後にスルターンのマリク・シャーに属したとも、セルジューク朝の軍人ギュミュシュテギン・ビルゲ・ベグに買われたともいわれる。奴隷身分から軍務に就き、やがて宮廷の職と地方の統治権を担うに至った。

1073年、アヌーシュ・テギーンはマリク・シャーの命令で、ガズナ朝に奪われたホラーサーン北部の領土を取り戻す遠征に参加した。ギュミュシュテギン・ビルゲ・ベグとともに派遣され、ガズナ朝の君主イブラーヒームの側を破ったとされる。この遠征では、両国の境にあるサカルカンドという場所も破壊された。1077年には、バルカ・テギンの死後、そのタシト・ダール職を継承したという。この職名は大水差し持ち、あるいは水盤持ちと訳され、王の洗面用の器を扱う役であった。その費用には中央アジアのホラズム地方からの収入が充てられており、この職を得たことが同地方の統治と結びついた。

こうして1077年ごろ、アヌーシュ・テギーンはホラズムの知事となった。軍事総督を意味するシフナに加え、当地に伝わるホラズム・シャーの称号も帯びたとされる。セルジューク朝のスルターンは、この地方の統治を王族よりもトルコ系の軍人奴隷に任せることが多く、アヌーシュ・テギーンもその一人であった。当時のホラズムでは、在地のイラン系住民とトルコ系の人々との同化が進んでいた一方、ソグド語に近いホラズム語が、話し言葉としても書き言葉としても用いられていた。ただし、その知事在任中の具体的な施政には不明な点が多い。アヌーシュ・テギーンはスルターンへの忠誠を保ち、独立した君主として振る舞ったわけではなかった。

長男クトゥブッディーン・ムハンマドの教育には力を注ぎ、メルヴへ送って学ばせた。1096年または1097年ごろに死去すると、ホラズムの統治職はすぐに長男へ渡ったのではなく、中央から派遣されたイキンチが一時的に務めた。その後、ムハンマドが知事職を継ぎ、ホラズム・シャーの新たな系統が始まったとされる。アヌーシュ・テギーン自身はこの王朝の創始者とみなされ、その名が一族の呼称にも用いられた。子孫は12世紀から13世紀初頭にかけて当地を支配し、ムハンマドの継承から始まる王統は1231年まで続いた。

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