HISTORICAL PERSON · 1101年没

ハインリヒ (フリースラント辺境伯)

フリースラント辺境伯。ザクセンの有力領主で、皇帝ロタール3世妃リヒェンツァの父。フリースラントの海運統制を試みた際、船が襲撃され死去したとされる。

生涯
1101年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ハインリヒ・フォン・ノルトハイムは、1055年ごろ、バイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムとリヒェンツァの長男として生まれた。「肥満伯」の名でも呼ばれる。1080年代前半、叙任権闘争の一環としてザクセンの貴族が皇帝ハインリヒ4世に反抗すると、父とともに皇帝に敵対し、姻戚関係にあった対立王ヘルマン・フォン・ザルムを支持した。1083年に父が死去すると、リッティガウと隣接するアイヒスフェルトの領地を受け継ぎ、当時のザクセンでも有力な領主の一人となった。しかし1086年には弟たちとともに陣営を変え、ハインリヒ4世を支持する側に回った。

同じ1086年、ブラウンシュヴァイクのゲルトルートと結婚した。妻はカトレンブルク伯の未亡人であり、この婚姻を通じ、カトレンブルク伯家とブルノン家の財産がノルトハイム家の領地に合流した。また、ビルシュタイン伯家からもヴェラ川流域の土地を相続し、その地域で唯一の領主となった。妻の兄エクベルト2世はマイセン辺境伯だったが、子がなかった。1089年にエクベルトが皇帝に反乱を起こすと、フリースラントの伯領は没収されてユトレヒト司教コンラートの管理下に置かれた。翌1090年にエクベルトが死去し、ハインリヒは妻の権利に基づいてこれらの伯領を相続する立場となった。一方、マイセン辺境伯の地位は皇帝からヴェッティン家のハインリヒ1世へ与えられた。フリースラントの相続権があっても、すぐに現地を支配できたわけではなかった。

ハインリヒはヘルマルスハウゼンの修道院の保護を担うフォークトでもあり、1093年にはヴェーザー川上流にベネディクト会のブルスフェルデ修道院を創建した。1099年、ユトレヒト司教コンラートが暗殺されると、皇帝はついにフリースラントの伯領をハインリヒに与えた。辺境伯となったハインリヒは、ただちにフリースラントの商船の運航を自らの統制下に置こうとした。その際、スタフォーレンの町に認められていた特権を無視したため、商人や町の有力者と対立した。教会側もハインリヒを脅威と感じ、町の商人たちと同盟した。彼らは表向きには友好的な関係を保って迎え入れたが、ハインリヒは危険を察知し、妻とともに船に乗って逃れようとした。船は海上で襲撃されて沈められ、ハインリヒは命を落とした。妻ゲルトルートはかろうじて襲撃を逃れた。

死去した正確な日は分かっていないが、1101年4月10日に自ら創建したブルスフェルデ修道院に埋葬された。ゲルトルートとの間には三人の子があり、息子オットー3世が父の領地を継いだ。娘リヒェンツァはカトレンブルク家とブルノン家の財産を受け継ぎ、のちにザクセン公、さらに神聖ローマ皇帝となるロタール3世の妃となった。もう一人の娘ゲルトルートはベントハイムとライネックを相続し、ライン宮中伯ジークフリート1世に嫁いだのち、ザルム伯オットー1世と再婚した。未亡人のゲルトルートも、兄の後を継いでいたマイセン辺境伯ハインリヒ1世と再婚した。娘リヒェンツァの死後、家の財産はその娘ゲルトルート・フォン・ザクセンに渡った。この孫娘はハインリヒ傲岸公の妻で、ハインリヒ獅子公の母となった。

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