伝記
ルッジェーロ1世は、1031年ごろ、ノルマンディーの小貴族タンクレード・ド・オートヴィルと、その二番目の妻フレデゼンドの末息子として生まれた。1057年に南イタリアへ渡り、先に現地で勢力を築いていた兄ロベルト・グイスカルドのもとで戦った。カラブリアではレッジョを除く大半の征服に加わり、スカレーア周辺の城を足場に略奪を重ねた時期もあった。兄が金銭援助を拒むと別の兄グリエルモに接近し、ロベルトと争うこともあったが、1058年にカラブリアで飢饉と納税拒否が広がると、兄弟は征服地を折半する約束を交わした。
1061年、兄弟は海峡を渡ってメッシーナを占領し、イスラム勢力が支配するシチリア島へ進出した。島内では複数の支配者が争っており、カターニアなどを治めるイブン・アッ=ティムナは、対立相手との戦いにルッジェーロの助力を求めていた。1062年にはカラブリアを分ける合意が実行され、それぞれが城と村の半分を持つことになった。このころジュディット・デヴルーと結婚した。1063年と1068年にも島内でムスリム勢力を破り、1072年、ロベルトとともにパレルモを獲得した。兄はルッジェーロを自身の配下のシチリア伯とした。騎士たちへの封土授与も行われたが、島全体の征服はまだ終わっていなかった。
1085年にロベルトが死去すると、ルッジェーロはオートヴィル家の年長者となった。甥ルッジェーロ・ボルサを、同じく甥のボエモンらに対抗して支え、その見返りにカラブリアの城々の支配を得た。シチリアでは1086年にシラクサを降し、1091年2月にノートが降伏して全島征服を完了した。同年、ボルサからパレルモの相続分も譲られた。さらに北アフリカからの攻撃を防ぐため、自ら艦隊を率いてマルタへ向かった。他の船に先んじて上陸し、わずかな抵抗を破って翌日にはイムディーナへ入った。現地のカーディーとの協定で、島を属国とする一方、従来の支配者による統治を認めた。捕らわれていたギリシャ人やキリスト教徒を解放し、帰還を望む多くの人々を船でシチリアへ連れ帰った。
領内ではノルマン人やロンバルド人の移住が進み、ラテン文化が広まった。他方でギリシャ人とムスリムの信仰にも寛容で、ギリシャ系修道院の建設を援助した。降伏した都市のムスリムにはモスクの再建や交易の自由などを認めたが、農村部ではムスリムが農奴となった。軍には多数のムスリム歩兵も雇い入れた。最後の妻アデライデ・デル・ヴァストとの間には、1093年にシモーネ、1095年にルッジェーロが生まれた。1098年、教皇はルッジェーロ1世とその相続人をシチリアにおける教皇の代理に任じた。同年のカプア包囲でも、軍営には多くのムスリム兵の天幕が並んだと伝えられる。
ルッジェーロはシラクサやアグリジェントなどにラテン教会の司教座を設け、司教を自ら任命するなど、島の教会にも強い権限を持った。伯に対する大規模な反乱は起こらず、晩年にはシチリアの大伯爵と呼ばれた。1101年6月22日に死去し、幼いシモーネが伯位を継いだ。シモーネの死後は弟ルッジェーロ2世が続き、のちにシチリアの初代国王となった。未亡人アデライデは後にエルサレム王ボードゥアン1世と再婚したが、その婚姻は離婚に終わった。
同じ年に亡くなった人物
- ムスタアリー (1101年没)
- Akka Mahadevi (1101年(推定))
- フセスラフ・ブリャチスラヴィチ (1101年没)
- Yennenga (1101年(推定))
- ユーグ1世 (ヴェルマンドワ伯) (1101年没)
同じ地域に関係する人物
- シモーネ・ダルタヴィッラ (1105年没)
- ジョアシャン・ミュラ (1815年没)
- ケルンのブルーノ (1101年没)