伝記
ルキウス・カエキリウス・メテッルスは、共和政ローマ中期の政務官で、紀元前290年ごろに生まれ、紀元前221年に没した。名門メテッルス家の人物で、第一次ポエニ戦争を戦い、執政官に二度選ばれた。父は紀元前284年の執政官ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテルで、アッレティウムの戦いで戦死したとされる。のちに最高神祇官や独裁官も務めたこの人物には、三人の息子がいた。息子には護民官を務めた同名のルキウス、紀元前206年に執政官となったクィントゥス、第二次ポエニ戦争でプラエトルとしてハンニバルと戦ったマルクスがいる。
最初の執政官就任は紀元前251年で、第一次ポエニ戦争の14年目にあたる。同僚はガイウス・フリウス・パキルスで、二人はカルタゴの将軍ハスドルバルと戦うためシチリアへ送られた。この年、シチリアではティンダリスなどの都市がローマと和を結び、カルタゴ側によるパノルムス奪回の試みは退けられた。メテッルスの勝利は、その流れの中の出来事であった。ローマ兵はカルタゴ軍の戦象をひどく恐れ、将軍たちも攻撃に踏み切れないまま長く動かなかった。やがてパキルスが兵力の一部とともにイタリアへ呼び戻されると、ハスドルバルはこの機を捉えてパノルムス(パレルモ)を攻めたが、メテッルスに完敗した。
この戦いでは軽歩兵(ウェリテス)を塹壕に潜ませ、塹壕と城壁から投げ槍や投石を浴びせて戦象を混乱させたという。続く奇襲と素早い反撃でローマ軍の歩兵がカルタゴ軍を一掃した。多数の敵兵が討たれ、戦象は120頭とも140頭ともいわれる数が捕獲された。一部はローマでの凱旋式で披露された。13人のカルタゴの将軍を破ったともされ、メテッルスは凱旋式を挙げる栄誉を得た。戦象の姿は、のちにメテッルス家の貨幣鋳造委員が発行したデナリウス銀貨にも描かれ、ローマの市民に披露された象の記憶を伝えている。この勝利はシチリアにおけるローマの優位を確立し、戦争の行方に決定的な影響を与えたとされる。のちにメテッルス家が鋳造した貨幣には、この勝利を記念して戦象が描かれた。
紀元前249年にはドレパナ沖の海戦でローマ艦隊が大損害を受けた。元老院はアウルス・アティリウス・カラティヌスを独裁官に指名し、メテッルスを騎兵長官に選んだ。メテッルスはただちにシチリアの軍を率いるよう命じられ、この件は、イタリアの外で軍を率いた最初のローマ独裁官の例ともいわれる。紀元前247年には、ヌメリウス・ファビウス・ブテオとともに二度目の執政官に就任し、メテッルスがリリュバエウムの作戦を、ファビウスがドレパナの作戦を担った。
紀元前243年には最高神祇官に選ばれ、22年間この職にあった。紀元前241年にウェスタ神殿が燃えた際には、メテッルスがためらわず炎に飛び込み、神聖なパラディウムなどを救い出した。その代償として視力を失い、元老院は彼に、戦車に乗って元老院議事堂へ向かう特権を与えたとされる。メテッルス家はこの功を記念し、後年の貨幣にパラディウムを刻んだ。紀元前224年には、執政官が市外にいたため、選挙を実施する目的の独裁官に任じられ、ブテオを騎兵長官にした。その功績は、息子クィントゥスが述べた弔辞の一節として、大プリニウスが記録している。没年は紀元前221年ごろとみられ、最高神祇官の職はルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- 宋玉 (紀元前 221年)
- ハスドルバル (ハミルカルの娘婿) (紀元前221年没)
- アンティゴノス3世 (紀元前221年没)
- ベレニケ2世 (紀元前221年没)
- エウクレイダス (紀元前 221年)
同じ地域に関係する人物
- ガスパール・ファン・ウィッテル (1736年没)
- ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌス (紀元前170年没)
- フアン・ボルジア (1497年没)
- ヘリオガバルス (222年没)
- ジョヴァンニ・バッチスタ・カプロニ (1957年没)