伝記
ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスは、紀元前3世紀末から紀元前2世紀初頭にかけての共和政ローマの政務官で、紀元前192年に執政官(コンスル)を務めた人物である。生年は紀元前230年頃、没年は紀元前170年とされる。
パトリキ(貴族)のクィンクティウス氏族の出身である。父のプラエノーメンはティトゥス、祖父はルキウスということが分かるだけで、それ以外は不明である。父が神官(フラーメン)だったため、子孫がフラミニヌスの名を名乗ったとの仮説がある。弟に、ギリシアの自由を宣言したことで知られるティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスがいる。史料に最初に現れるのは紀元前213年で、死去したプブリウス・フリウス・ピルスの後任として鳥占官に就いた。生年が正しければ17歳になるが、第二次ポエニ戦争の最中で大人の多くが軍人だったことや、友人だったファビウス・マクシムスやマルケッルスの支援があったことから、不思議ではないとの見方がある。名誉の経歴の第一歩は、ハンニバルとの戦争が終わった紀元前201年の上級按察官である。同僚のルキウス・ウァレリウス・フラックスと壮大な競技会を開き、スキピオ・アフリカヌスがアフリカから持ち帰った大量の穀物を市民に分配した。おそらくこれで人気を得て、翌年の選挙で二人は共に法務官に当選した。その間に弟は紀元前198年、法務官を経ず、30歳前という異例の若さで執政官となり、兄弟の政治的な地位は逆転した。
紀元前200年からローマはマケドニアと戦っていた。弟が軍の指揮のためバルカン半島に渡った後、フラミニヌスも副司令官として艦隊と沿岸の警備を任され、ピレウスを根拠地とした。ペルガモンとロードスの戦力も併せてエウボイア島のエレトリアを夜襲で占領し、カリストスも降伏させた。続いてコリントスを包囲し、アカイア同盟も加わったが、守備兵の抵抗が強く、マケドニア兵1500の救援も来て、撤退に同意した。紀元前197年春、元老院は兄弟の権限を広げ、弟は陸上、兄は海上の作戦を担うことになった。兄の使命はマケドニア側に残るアカルナニアの征服で、レフカダを包囲して突入し、弟がキュノスケファライで大勝した知らせが届くとアカルナニア全体が降伏した。紀元前195年にはスパルタ王ナビスとの戦いで、40隻の艦隊でラコニアの海岸を制圧してギュティオンを包囲し、スパルタを囲んでナビスに講和を強いた。紀元前194年春にイタリアへ戻った。
紀元前193年、フラミニヌスは執政官に立候補した。弟の支援を受けた彼に対し、パトリキ候補のスキピオ・ナシカは従兄弟のアフリカヌスの支援を受けて争い、選挙は二人の著名な政治家の対立となったが、勝ったのはフラミニヌスだった。担当地はガリア・キサルピナで、リグリアやボイイ族との戦いが語られる。翌年はアンティオコス3世との戦いでグラブリオの下に使節として加わったが、その働きは不明である。
紀元前184年、大カトとフラックスが監察官になると、クィンクティウス一派への攻撃が始まり、フラミニヌスは元老院名簿から除名された七人の一人となった。理由は伝承により異なる。大カトの演説を引くリウィウスによれば、フラミニヌスはカルタゴ人の愛人を連れてガリアに赴き、剣闘士の試合を見られないと愚痴る愛人の目の前で、ボイイ族の使節を自ら殺したという。別の説では、愛した女性が斬首を見たがり、死刑囚を自ら斧で斬首したという。プルタルコスは大カトの話は誇張とし、愛人の少年の言葉で死刑囚を護衛官に斬らせたとする第三の説を挙げる。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・コルネリウス・レントゥルス (紀元前199年の執政官) (紀元前170年代没)
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ (紀元前170年代没)
- ガイウス・リウィウス・サリナトル (紀元前170年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハネス4世 (ローマ教皇) (642年没)
- ゾシムス (ローマ教皇) (418年没)
- ジュゼッペ・ベルト (1978年没)
- グレゴリウス16世 (ローマ教皇) (1846年没)
- フランチェスコ・サルヴィアーティ (1563年没)