伝記
ウンベルト2世・ディ・サヴォイアは、1065年ごろ、またはそれ以後に生まれたモーリエンヌ伯である。父はアメデーオ2世、母はジュネーヴ伯家のジャンヌであった。体格が大きかったためとみられ、肥満伯、あるいは強壮伯の異名を持つ。サヴォイア伯として広く知られるが、一族がこの称号を用いるのは後の時代であり、本人はモーリエンヌの伯として、ブジェ、アオスタ、シャブレ、スーザなどに権利を持った。1080年ごろ父の後を継いだとされ、まだ成人していなかった可能性が高い。祖母アデライデ・ディ・スーザが摂政を務めたとも考えられている。サン・モーリス・ダゴーヌ修道院に対しても権限を持ち、在俗の修道院長となった。
継承した所領はアルプスの谷やピエモンテに分布していたが、伯の権力は周辺の有力者によって脅かされていた。モーリエンヌ司教やタランテーズの大司教伯は、伯より富裕で強い勢力を持っていた。皇帝に直接従う谷の小領主たちもおり、ピエモンテの大領主たちは一族の遺産の一部に権利を主張した。タランテーズでは、大司教が谷の下流と中流の大部分を押さえる一方、ブリアンソン副伯が城と一部の土地を持っていた。大司教エラクリウスがムーティエなどで世俗的な支配を強めようとすると、副伯エメリックは他の領主とともに反発した。大司教は皇帝に援助を求め、皇帝がウンベルトを介入させたと伝えられる。
1082年ごろ、ウンベルトはブリアンソン副伯の兵を破ったとされる。この勝利によってタランテーズへの影響を強め、サランの城を拠点に、アオスタ、サヴォイア、モーリエンヌの各領地を結ぶ足場を得たという。ただし、この時点で谷全体を征服したかどうかは確かではなく、皇帝から代理権を受けて大司教に優越したという説も確証を欠く。領地の経営では、タランテーズ、ヴォー、上シャブレ、スーザなどに管理官を置く仕組みを整えた。また各地の副伯も用い、モーリエンヌではラ・シャンブル家、タランテーズではブリアンソン家、サヴォイアではシャンベリー家などが関わった。セルモランではボクソゼル家、ブジェではグラモン家も同様の役割を担った。アオスタでも副伯を統治に用いており、その仕組みは複数の伯領に及んでいた。これらの家の成員は伯の評議に加わることもあった。
1090年ごろ、ブルゴーニュ伯ギヨーム1世の娘ジゼルと結婚した。妻はジル、ヴィルなどの名でも呼ばれる。二人の間にはアメデーオ、グリエルモ、アデライード、アニェーゼ、ウンベルト、レジナルド、グイードの7人の子が生まれた。ウンベルトは領主たちを家臣とする一方、修道院への寄進や保護にも力を向けた。ブジェのイェンヌやジュネーヴのサン・ヴィクトルへ寄進し、ボージュのベルヴォー小修道院の創建のための寄付も認めた。修道院を保護する立場は、各地における権利と支配の拡大にも結びついていた。
1103年10月19日、タランテーズのサラン城で死去した。跡は息子アメデーオ3世が継いだ。グリエルモはリエージュ司教、グイードはナミュールの修道院長となり、娘アデライードはフランス王ルイ6世の妃となった。婚姻による義兄弟ギーは、後に教皇カリストゥス2世に選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- イツハーク・アルファーシー (1103年)
- マグヌス3世 (ノルウェー王) (1103年)
- ハインリヒ1世 (アイレンブルク伯) (1103年没)
- ギータ・オブ・ウェセックス (1103年(推定))
- エーリク1世 (デンマーク王) (1103年没)
同じ地域に関係する人物
- ウンベルト3世・ディ・サヴォイア (1189年没)
- ヴィクトル・ロシュフォール (1913年没)
- シャルル2世 (西フランク王) (877年没)
- レオン・ブランシュヴィック (1944年没)
- フィリッポ2世・ディ・サヴォイア (1497年没)