伝記
マリク・シャー2世は、1099年または1100年に生まれたセルジューク家の王子である。アブルファトフ・マリク・シャー・イブン・バルキヤールクともいう。父はスルターンのバルキヤールク、祖父はマリク・シャー1世で、祖父にちなんで名づけられた。父は弟ムハンマド・タパルと支配権を争っており、その対立の中で幼い息子が後継者となった。1104年の両者の合意では、バルキヤールクの死後はムハンマドがスルターンとなるはずだったともいわれる。しかし、バルキヤールクは死に際して息子を自らの後継者に定めた。叔父との戦いから戻る途中、ブルージェルドで重病となり、息子に王権を譲ったとされる。
父の死は1104年12月とも1105年初めともいわれ、マリク・シャー2世はまだ4歳ないし5歳だった。バルキヤールクは息子の後見をアミールのアヤーズに託していた。アヤーズは幼主をバグダードに連れて行き、スルターンの座につけた。即位時の年齢を4歳10か月とする説もある。宰相サアド・アルムルク・アブルマハーシンも幼主を支え、バグダードの軍事総督イルガーズィーも擁立に関わったとされる。王朝の長という地位は名目上マリク・シャー2世に属したが、ホラーサーンでは一族のアフマド・サンジャルが、より実効的な権力を握っていたと考えられている。小アジアのルームでは、ダーウード・クルチ・アルスラーンが所領を支配していた。幼いスルターンの下で実際の政務を担ったのは、後見人と宰相であった。
1105年1月、カリフのムスタズヒルが、このために招集したディーワーンの会合で正式な即位の儀式が行われたとされる。翌日にはバグダードのすべてのモスクで、礼拝に際して新スルターンの名が告げられた。マリク・シャー2世はムイッズッディーンという尊称も与えられた。しかし、叔父ムハンマド・タパルは自らの継承権を主張し、モスルを経由してバグダードへ向かった。アヤーズと宰相は、叔父の軍に抵抗しても勝ち目がないと判断したとされる。実際にムハンマドに対し、武力で立ち向かおうとする者は現れなかった。
2月初め、ムハンマドがバグダードへ入ると、アヤーズは用心のため幼主の陣営を市外へ移した。叔父は自分をスルターンとして認めるよう要求する一方、マリク・シャー2世、アヤーズ、幼主に仕える高官たちの身の安全を保証した。この条件の下で、2月13日にはムハンマドがスルターンと認められたとされる。アヤーズが引き渡した支配地には、レイ、タバリスターン、ファールス、バグダード、ジャズィーラ、さらに二聖都の地が含まれていたという。マリク・シャー2世の統治は、年をまたぐかどうかという短期間のもので、バグダードで名目上の君主として立てられたにとどまった。
その後も政情は落ち着かず、新しい君主はバルキヤールクに仕えていたアミールたちを信用しなかった。3月から5月にかけて、旧主側の有力者に処分が加えられたとされる。アヤーズも和解の後に暗殺された。マリク・シャー2世自身も捕らえられ、盲目にされて牢に入れられたという。叔父によって殺されたとも伝えられ、いずれにせよ1105年のうちに死去した。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ1世 (シュヴァーベン大公) (1105年没)
- インゲ1世 (スウェーデン王) (1105年)
- ユーディト・フォン・シュヴァーベン (1105年)
- 粛宗 (高麗王) (1105年没)
- アドリアノス・コムネノス (1105年没)
同じ地域に関係する人物
- アブドルカリーム・カーシム (1963年没)
- ジャアファル (803年没)
- ミトラダテス2世 (紀元前80年代没)
- ハッラージュ (922年没)
- Abu'l-Barakat al-Baghdadi (1165年没)