伝記
マルクス・アエミリウス・レピドゥスは、紀元前3世紀中期から後期の共和政ローマの政務官である。紀元前232年と紀元前221年に執政官を務め、紀元前216年に没した。第一次と第二次のポエニ戦争のあいだの時期にあたり、この時代についてはリウィウスなどの記述に欠落が多く、本人についても分かることは少ない。
パトリキのアエミリウス氏族の出である。古代の歴史家はこの氏族をローマで最も古い氏族の一つとし、トリブスの一つにもその名がつけられている。祖先はピタゴラス、または第2代の王ヌマ・ポンピリウスとされ、プルタルコスが引く一説では、アイネイアースとラウィニアの間の娘アエミリアがロムルスを産んだともいう。プルタルコスはこの氏族の特徴を、優れた道徳心を持ち、絶えず改善を重ねたことと述べている。レピドゥスの家名で最初に執政官となったのは紀元前285年のマルクス・アエミリウス・レピドゥスで、おそらく本人の父である。祖父も同名で、父方の三代がいずれもマルクスの名を持つ。
現存する史料にレピドゥスが最初に現れるのは、紀元前232年の執政官就任の場面である。同僚の平民執政官はマルクス・プブリキウス・マッレオルスだった。同年は鳥占官にも就いていたとされる。第一次ポエニ戦争の後にローマが占領したサルディニアで住民が反乱を起こしており、二人の執政官はこれを鎮圧して多くの戦利品を得た。続いてコルシカへ向かい、軍事行動は成功したものの、帰路で島民に襲われ、戦利品をすべて奪われてしまった。この年、護民官ガイウス・フラミニウスが、ガリア人から得たピケヌム周辺の土地を戦争で土地を失った人々に分配したと、ポリュビオスは記す。ただしキケロは、この出来事をそれより数年後のスプリウス・カルウィリウスの執政官の年に置いている。
のちにレピドゥスは補充執政官にも就いた。ただしカピトリヌスのファスティが欠けているため年は確定せず、紀元前221年から紀元前219年のいずれかとされ、歴史学者ブロートンは紀元前221年と推定している。
紀元前216年末に没したとされ、終身職の鳥占官の地位にあった。同年にはカンナエの戦いがあり、その戦いで死んだとする記述もある。三人の息子マルクス、ルキウス、クィントゥスは、父を弔う競技会を開いた。フォルム・ロマヌムでは22組の剣闘士が戦ったという。長男マルクスは法務官を二度または三度務め、紀元前216年の執政官選挙には敗れた。その子、同名のマルクス・アエミリウス・レピドゥスは、紀元前187年と紀元前175年に執政官となり、元老院筆頭も務めた。
同じ年に亡くなった人物
- ピネス (紀元前216)
- ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前234年の執政官) (紀元前216年没)
- ルキウス・アエミリウス・パウルス (紀元前216年没)
- マルクス・ミヌキウス・ルフス (紀元前221年の執政官) (紀元前216年没)
- グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前216年没)
同じ地域に関係する人物
- インノケンティウス13世 (ローマ教皇) (1724年没)
- ピエトロ・オットボーニ (1740年没)
- タルクィニウス・プリスクス (紀元前579年没)
- ジャン・レオナルディ (1609年没)
- ピエール・ルイージ・ネルヴィ (1979年没)