伝記
ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスは、紀元前3世紀中期から後期の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前234年と紀元前229年に執政官を務め、紀元前215年の執政官にも選ばれていたが、就任する前に第二次ポエニ戦争のさなかガリア人との戦いで戦死した。
アルビヌスはパトリキ(貴族)のポストゥミウス氏族の出身である。この氏族はローマで最も有力な氏族の一つで、共和政建国5年目の紀元前505年にはプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスが氏族最初の執政官となり、その後も多くの執政官を出した。父も祖父もプラエノーメンはアウルスで、父は紀元前242年の執政官アウルス・ポストゥミウス・アルビヌスと考えられている。息子は二人いたと思われ、一人は紀元前194年の財務官ルキウス・ポストゥミウス・ティンパヌス、もう一人は紀元前186年の執政官スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスである。
最初に歴史に現れるのは紀元前234年の執政官就任時で、同僚はプレブス(平民)のスプリウス・カルウィリウス・マクシムス・ルガであった。ルガがコルシカに出征したのに対し、アルビヌスはリグリアとの戦いを担当した。戦いは順調に進んだものの最終的な勝利は得られず、ルガと違って凱旋式を行えなかった。その後、軍事指揮権を保つため法務官を務めたと思われ、最初の就任は紀元前233年または紀元前228年とされる。紀元前229年には二度目の執政官となり、同僚はグナエウス・フルウィウス・ケントゥマルスであった。このときローマは、海賊行為を行っていたイリュリアの女王テウタとの戦争を準備していた。アルビヌスは歩兵2万、騎兵2千の陸軍を率い、ケントゥマルスは海軍を率いて陸軍をブルンディシウムからアポロニアへ運んだ。ここでは戦闘がなく、アポロニアとエピダムノスはローマの保護を求めた。両執政官は内陸へ進み、イリュリアに包囲されていたイッススを解放し、多くの都市を占領して、ファロスのデメトリオスをイリュリアの新しい王とした。
執政官の任期が切れる年末、ケントゥマルスはイタリアに戻ったが、アルビヌスはイリュリアで冬営した。春になるとテウタが講和を求め、条約により、彼女の船はリッサより南へ出ることを禁じられ、貢納金を払い、ローマが支配した都市への権利を放棄した。その後アルビヌスは帰国して凱旋式を行ったともいわれるが、凱旋式の記録にはケントゥマルスの紀元前228年6月21日の式しかなく、アルビヌスは政治闘争に巻き込まれて式を行えなかったのかもしれない。このあと長く記録から姿を消す。
紀元前218年にハンニバルがイタリアへ侵攻し、トラシメヌス湖畔の戦いでローマ軍が大敗したのち、紀元前216年にアルビヌスは法務官として軍を率い、ガリア戦線を担当した。任務は、ハンニバル軍に加わったガリア人を故郷に戻すことだったとされる。ローマにいないまま翌年の執政官に選ばれたが、2万5千の兵を率いてアリミヌムからポー川を渡りガリア人の土地へ入ったところで、リタナ・シルウァの森で待ち伏せされた。ガリア兵は道の両側の木をあらかじめ切り倒しておき、行軍中のローマ軍の上に倒したという。生存者は10人以下で、アルビヌスは捕虜になるのを避けるためだけに最後の戦いをして戦死した。頭蓋骨には金が塗られ、ガリアの祭祀の杯にされたと伝えられる。この戦いはカンナエの直後とされるが、実際にはもっと遅い秋のことと思われる。
同じ年に亡くなった人物
- グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前216年没)
- マルクス・ミヌキウス・ルフス (紀元前221年の執政官) (紀元前216年没)
- ピネス (紀元前216)
- マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前232年の執政官) (紀元前216年没)
- ルキウス・アエミリウス・パウルス (紀元前216年没)
同じ地域に関係する人物
- セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ (1961年没)
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス (紀元前63年没)
- ピウス4世 (ローマ教皇) (1565年没)
- ミケランジェロ・チェルクォッツィ (1660年没)
- ドナト・ブラマンテ (1514年没)