伝記
フェルディナン・フレデリック・アンリ・モアッサンは、1852年9月28日、パリに生まれたフランスの化学者であり、薬剤師でもある。父フランシス・フェルディナンは東部鉄道会社の下級職員、母ジョゼフィーヌ・アメラルディーヌはお針子だった。1864年に一家はモーに移り、地元の学校に通ったが、1870年に普仏戦争のためパリへ戻った。大学入学に必要な資格を得られないまま学校を去り、パリの薬屋で働き始めた。そこでヒ素中毒の人を助けた体験から、化学を勉強しようと決心した。まずエドモン・フレミーの研究室で学び、のちにピエール・ポール・デエランに師事した。デエランは彼に学歴を得るよう説き伏せ、モアッサンはバカロレアを何度か失敗した末に、1874年に取得した。その後、1879年に薬学校で一級薬剤師の資格を得て、1880年に博士号を取得した。ユダヤ系の血を引き、カトリックの信仰を実践していたという。
1874年に、デエランと共同で、植物における二酸化炭素と酸素の代謝についての最初の学術論文を発表した。その後、植物生理学から無機化学に転じ、自然発火性の鉄の研究が、当時のフランスの無機化学を代表する二人の化学者、ドヴィーユとドブレに注目された。薬学校で助講師、主任実験助手を経て、1886年までに毒物学の教授となり、1899年に無機化学の講座を持った。翌年にはソルボンヌ大学の無機化学の教授を、トルーストの後任として務めた。1882年にレオニー・リュガンと結婚し、1885年に息子が生まれた。
1880年代のモアッサンは、フッ素の研究、とくにその分離に力を注いだ。フッ素の存在は知られていたが、ガラスや貴金属とも反応するほど強く活性で毒性も強く、単離は極めて困難で、実験中に亡くなった化学者もいた。彼は自前の実験室を持たず、シャルル・フリーデルらの実験室を借りていた。そこには90個のブンゼン電池を使った強力な電池があり、三塩化ヒ素の電気分解で発生する気体を観察できた。1886年6月26日、無水のフッ化水素に二フッ化水素カリウムを溶かして電気分解し、白金・イリジウムの電極と白金の容器を使い、全体を零下50度に冷却して、フッ素の単離に成功した。二フッ化水素カリウムを溶かしたのは、フッ化水素が電気を通さないためである。しかし、フランス科学アカデミーが派遣した3人の代理人の前では、実験を再現できなかった。最初の実験では、フッ化水素に不純物としてフッ化カリウムが含まれていたからである。問題に気づいて何度かフッ素の分離を実演し、1万フランの賞金を得た。この方法は今も基本的に同じ技法で行われている。実験中の事故でフッ素中毒となり、片目を失明したともされる。
1900年までに、220アンペア、80ボルトの大電力で3500度に達する電気炉を開発して、ホウ素や人工ダイヤモンドを作る研究をした。1893年に合成の成功を発表したが、没後、助手が彼を喜ばせるために天然のダイヤモンドを混ぜたと告白したという話が残る。電気炉でさまざまなホウ化物や炭化物ができるようになった。1893年にアリゾナ州の隕石の破片から新種の鉱物を見つけ、炭化ケイ素と結論付けた。1905年にこの鉱物はモアッサナイトと名付けられた。1906年にフッ素の研究と分離、電気炉の製作の業績により、ノーベル化学賞を受けた。候補にはメンデレーエフもいたが、一票差で勝利した。受賞の翌年、1907年2月20日にパリで急死し、急性虫垂炎が原因とされる。
同じ年に亡くなった人物
- オスカル2世 (スウェーデン王) (1907年没)
- シュリ・プリュドム (1907年没)
- ジョン・カー (物理学者) (1907年没)
- ウジェーヌ・プベル (1907年没)
- マルコ・ヴォフチョク (1907年没)
同じ地域に関係する人物
- ポール・デュラン=リュエル (1922年没)
- シャルロット・ド・ロアン (1737-1760) (1760年没)
- フランソワ=グザヴィエ・オルトリ (2007年没)
- ジャン・バティスト・ブサンゴー (1887年没)
- セルゲイ・リャプノフ (1924年没)