伝記
シュリ・プリュドムは、本名をルネ・フランソワ・アルマン・プリュドムといい、1839年3月16日にパリの裕福な商人の家庭に生まれたフランスの詩人、随筆家である。はじめは技術者を志してリセ・ボナパルトで学んでいたが、眼病を患って退学を余儀なくされ、エンジニアとしてのキャリアを断念した。その後はフランス東部ル・クルーゾの会社で働いたが、やがて法律の道に興味を示すようになり、弁護士として勤務した。この頃、所属していた学生サークル「ラ・ブリュイエール会議」で詩を発表するようになり、評価を受けたことが文学の道へ進むきっかけとなった。
1865年に処女詩集『詩賦集』を出版した。ロマン主義の詩人ラマルティーヌを髣髴させる文体で、哀愁に満ちた内容は、サント=ブーヴから称賛され、文筆活動を行うきっかけとなった。この詩集に収められた『壊れた花瓶』は、失恋をもとに壊れた心の優美な隠喩をうたっており、彼の代表作となっている。高踏派の詩人として執筆に励み、1866年に『試練』、1869年に『孤独』などの詩集を発表して、詩人としての地位を確立した。このころ、ルコント・ド・リールが編集した『現代高踏詩集』にも詩を寄せた。1870年代後半に入ると、古代ローマの詩人で哲学者ルクレティウスの『事物の本性について』を翻訳し、初期の叙情的な作風から離れていった。
1878年に詩集『正義』を、10年後に『幸福』を発表したが、文学的な手法の極端な節約は、詩情を損ねる結果となり、作風はすでに哲学的な内容になっていた。1881年からアカデミー・フランセーズの会員となり、1895年にはレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを受けた。1890年代後半には生理学者シャルル・ロベール・リシェと知り合い、雑誌に、リシェの寄稿に応える形で文章を寄せた。1894年に起きたドレフュス事件では、最初にドレフュスの擁護者となった。1905年には、パスカルに関する哲学書『パスカルの真の信仰』を著した。
1901年、アカデミー・フランセーズは、第1回ノーベル文学賞の受賞者として彼を推薦した。当時、世界的に有名だったトルストイが存命で、誰もが初代の受賞者はトルストイだと思っていたが、スウェーデン・アカデミーは、トルストイの主張する絶対平和主義が無政府主義的でノーベル賞の趣旨に合わない、またはトルストイがあまりに偉大で授与できなかったと述べた。こうして、「高尚な理想主義と芸術的完成度の形跡、心情と知性の両方の資質の珍しい組み合わせを与える、詩的な構成物に対して」ノーベル賞が授与され、彼はフランス人として初めて、記念すべき初代の受賞者となった。スウェーデンでは一部の作家が抗議活動を行うなど、世論の批判が相次いだ。妻もおらず生涯を孤独に過ごした彼は、莫大な賞金は自分には不要と考え、大半を文学の協会の創設に寄付した。
晩年はオー=ド=セーヌ県のシャトネ=マラブリーに移り、孤独な一生を過ごした。1907年9月6日に急死し、満68歳であった。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に葬られた。甥の画家ヘンリー・ジェルボーが唯一の相続人として遺産を受け取った。死後は数学者アンリ・ポアンカレがアカデミーの席に就いた。
同じ年に亡くなった人物
- オットマール・アンシュッツ (1907年没)
- マルセラン・ベルテロ (1907年没)
- エミール・ギルマン (1907年没)
- ミッツィ・カスパル (1907年没)
- クララ・ヒトラー (1907年没)
同じ地域に関係する人物
- リュシー・オブラック (2007年没)
- ベルナール・ジェルマン・ド・ラセペード (1825年没)
- オーギュスタン=ルイ・コーシー (1857年没)
- ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (1814年没)
- ジャン=ピエール・ブラン (2004年没)