伝記
エリー1世は、ラ・フレーシュ領主ジャンとポーラ・デュ・メーヌの子で、ド・ラ・フレーシュ、またはド・ボージャンシーとも呼ばれる。母はメーヌ伯エルベール1世の娘であり、エリーはこの血筋によってメーヌの統治権を主張した。兄弟には戦いに加わったのち修道士になった者や、成人する前に亡くなった者がおり、エリーが父の相続人となった。父の跡を継いで第三代のラ・フレーシュ領主となると、アンジュー伯フルク4世の家臣として、ノルマンディー公ロベール2世に対抗した。1090年にはシャトー・デュ・ロワール領主ジェルヴェ2世の娘マティルドと結婚し、娘エランブルジュをもうけた。
1091年、従兄ユーグ5世をメーヌ伯に据える反乱に加わった。バロン城を占領し、ル・マン司教オエルをラ・フレーシュの自分の城に閉じ込めた。しかしユーグは伯領で安定した地位を築けず、エリーに統治権を売った。売却は1092年とも1093年ともされ、代金は1万シリングであった。フルク4世の支援を受けて伯となったエリーは、数年間は比較的平穏に過ごした。1096年には十字軍への参加を表明したものの、イングランド王ウィリアム2世がメーヌの再征服を企てていると知らせてきたため、出発を取りやめた。
1098年2月から4月にかけて王側との戦闘が起こり、敵方ではロベール・ド・ベレームが大きな役割を果たした。エリーは当初この相手に勝利したが、4月28日に捕らえられて投獄された。すると、エリーの娘と自分の息子ジョフロワを婚約させていたフルク4世が介入し、ル・マンに入った。6月に戦いを再開したウィリアム2世はバロン城を降伏させたものの、ル・マンを落とすことはできなかった。その後、アンジュー側のバロン攻撃が失敗し、多くの捕虜が王の手に渡った。講和によってエリーは釈放されたが、メーヌは王の支配下に置かれた。この決着に満足できなかったエリーと王の関係は再び悪化した。
1099年3月に妻マティルドが死ぬと、ほどなくエリーは戦いを再開し、ル・マンを包囲した。戦闘で市街は焼けたが、ノルマンディー軍は砦で持ちこたえた。ウィリアム2世の素早い来援によってエリーは退いたものの、メイエに立てこもった部隊は王の攻撃を防いだ。1100年に王が死ぬと、エリーとフルクはル・マンを占領した。守備隊はロベール2世にも、新王ヘンリー1世にも救援を得られず降伏した。その後エリーはほぼ一貫してヘンリー1世を支援した。1105年の遠征ではメーヌの部隊を率い、バイユー包囲に参加した。翌1106年のタンシュブレーの戦いでは、メーヌとブルターニュの歩兵を指揮して敵に大きな損害を与え、ロベール2世に対する王の勝利を助けた。
1109年、エリーはカスティーリャ王アルフォンソ6世の未亡人と再婚した。この妻はアニェスとも記されるが、フランスに戻ったベアトリスであった可能性が高いとされる。妻は翌年に死去し、エリーも1110年7月11日に亡くなった。遺体はル・マンのノートルダム・ド・ラ・クチュール修道院教会の聖歌隊席に葬られた。伯領は娘エランブルジュと、その夫となったアンジュー伯フルク5世に渡った。
同じ年に亡くなった人物
- バフヤ・イブン・パクダ (1110年(推定))
- コンラート・フォン・ボイテルスバッハ (1110年)
- アリス・ド・ナミュール (1110年代没)
- ヨハネス・スキュリツェス (1110年)
- Al-Mustain II (1110年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルディナン・ド・レセップス (1894年没)
- ロベール・ゲラン (1952年没)
- アンリ・ド・モンフレイ (1974年没)
- ジルベール・デセリー (1183年没)
- ジャック・ペルチエ・デュ・マン (1582年没)