伝記
スプリウス・カルウィリウス・マクシムス・ルガは、共和政ローマのプレブス(平民)出身の政治家・軍人である。生年は不詳で、紀元前212年に没したとされるが、紀元前211年没とする説もあり、おおよそ紀元前274年ごろの生まれともいわれる。父は、カルウィリウス氏族として最初に執政官(コンスル)となったスプリウス・カルウィリウス・マクシムスである。ルガ自身も執政官を二度務めた。アルファベットのGを発明したとされるスプリウス・カルウィリウス・ルガは、彼の解放奴隷である。一方、Gの考案はルガ本人に帰されることもあり、それによれば、すでにあった文字Cに縦の線を加え、Cが有声の軟口蓋破裂音を表すことをやめさせて、読み方の曖昧さを解消したのだという。
紀元前241年に第一次ポエニ戦争に勝ったローマは、最初の海外領土としてシキリア属州を得た。敗れたカルタゴでは傭兵の反乱が起こり、ローマはこの混乱に乗じて紀元前238年にサルディニアに上陸した。カルタゴは抵抗せず、サルディニアを割譲した。ルガは紀元前234年、ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスとともに執政官に就任した。併合されたばかりのコルシカとサルディニアでは反乱が起きていた。ルガはまずコルシカに上陸したが、嵐のために一度ローマへ戻らざるをえなかったとも伝えられる。サルディニアを担当していたプラエトルが死ぬと、そちらにも向かって反乱を鎮め、カルタゴの船をサルディニアとコルシカから追い払った。この勝利を讃えて、ローマに戻ったルガは凱旋式を挙行した。
紀元前228年には、クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコススを同僚として二度目の執政官に就いた。キケロによれば、ルガは同僚とともに、護民官ガイウス・フラミニウスがガリア・キサルピナの公有地を分配するために提案した農地法に反対しなかった。ただしポリュビオスは、この法律が4年前に成立していたとしている。
その後は紀元前216年のカンナエの戦いの年まで、ルガの名は見えない。この大敗北で約80人の元老院議員が戦死した。当時の議員数は300人程度であった。欠員を補う方法として、ルガはラティウムの同盟都市から元老院議員を選ぶことを提案した。同盟都市はハンニバルの圧力に屈してローマから離反するおそれがあり、議席を与えればそれを防げると考えられたのである。しかしこの提案は、憤慨と軽蔑をもって拒否された。
ルガが死去したとき、彼は終身職の鳥占官(アウグル)の地位にあり、後任にはマルクス・セルウィリウス・ゲミヌスが就いた。ルガは、妻の不妊を理由に離縁した最初のローマ人としても知られ、その行いは広く非難されたという。ただし、これがローマで最初の離婚だったかどうかは疑問視されている。2世紀ほど前の十二表法がすでに離婚を認めていたかもしれないからである。
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