伝記
ユリア・カエサリスは、共和政ローマ時代の女性で、ガイウス・ユリウス・カエサルの娘、グナエウス・ポンペイウスの4番目の妻である。母はルキウス・コルネリウス・キンナの娘コルネリアで、カエサルの結婚から生まれた唯一の子とされる。生まれは紀元前83年か82年、ローマ市内とされるが、前76年ごろとする説もある。美しさと徳の高さで知られた。
前81年、ユリアが1歳(または2歳)のとき、父は独裁官スッラが命じた母との離婚に逆らい、怒りを買って小アジアへ左遷された。前78年に父は一度ローマへ戻ったものの、勉学や軍務のためすぐにローマを離れた。そのためユリアは主に母と祖母アウレリア・コッタに育てられたが、前69年に母が死去した。ユリアは人々、とりわけ女性を惹きつける魅力をもっていたと伝えられる。当時はクィントゥス・セルウィリウス・カエピオと婚約していたが、父は、ポンペイウスとの政治同盟、すなわち第一回三頭政治の結びつきを固めるため、この婚約を解消した。前59年4月、ユリアはポンペイウスに嫁いだ。この縁組は二人の有力者を結ぶ最も固い絆とみなされ、キケロやカトーら閥族派は強い警戒を示した。
ポンペイウスはユリアより20歳以上も年上だったが、夫婦仲は極めて良好で、特にポンペイウスは彼女に夢中だったという。ユリアも夫に愛情を寄せていたと伝えられる。ローマ市民は、ポンペイウスが若い妻との家庭生活に溺れて政治への関心を失ったと考えた。事実、ポンペイウスはヒスパニア属州の総督だったが、ルキウス・アフラニウスらに現地の統治を任せ、自らはローマに留まっていた。
前55年、ユリアは妊娠していた。翌年のアエディリスを決める選挙で騒乱が起き、ポンペイウスの衣服が血で汚れた。その衣服を見たユリアは衝撃を受け、初めての出産は流産に終わった。プルタルコスは、奴隷が血のついたトガを家に運び、夫が殺されたと思ったユリアが早産したと伝える。この流産で健康は回復できないほど損なわれたともいわれる。前54年に再び妊娠し、8月に出産したが、産褥で死去した。生まれたばかりの子も数日後に後を追うように亡くなった。子の性別は、男児とも女児ともいわれる。このときカエサルはブリタンニア遠征の最中で、セネカによれば、訃報もその地で受け取ったという。
ポンペイウスは彼女を自分の別荘があるアルバ・ロンガで葬ろうとしたが、ユリアを愛していたローマ市民は、遺体をカンプス・マルティウス(マルスの野)へ運んで追悼した。この埋葬には元老院の特別な決議が必要で、同年の執政官ドミティウス・アヘノバルブスは、ポンペイウスとカエサルへの憎しみから護民官に禁止を出させた。しかし民意が勝ち、人々は広場での追悼演説を聞いたのち、遺骨の壺をマルスの野に納めた。この地での火葬はローマ人にとって名誉であり、スッラやカエサルも同地で火葬されている。ユリアの死は、ポンペイウスとカエサルの間に亀裂をもたらし、翌前53年、両者の同盟者クラッススのパルティア遠征での戦死が決定的にした。死の5年後の前49年から、父と夫は内戦で戦うことになる。前46年、カエサルは凱旋式でユリアへの追悼として剣闘士興行を行った。その日は9月26日で、ウェヌス・ゲネトリクスの祭の日に合わせて選ばれた。のちの詩人ルカヌスの『内乱』には、ユリアの亡霊がポンペイウスの前に現れる場面があり、ダンテの『神曲』では、辺獄にいる人物の一人として彼女の名が挙がる。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス (紀元前98年の執政官) (紀元前 54年)
- ミトラダテス3世 (紀元前54年没)
- アリオウィストゥス (紀元前54年没)
- クィントゥス・ティトゥリウス・サビヌス (紀元前54年没)
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクス (紀元前 54年)
同じ地域に関係する人物
- アレクサンデル6世 (ローマ教皇) (1503年没)
- Trebatius Testa (紀元前3)
- フランチェスコ・マリア・デル・モンテ (1627年没)
- マリア・ルイサ・デ・パルマ (1819年没)
- マルクス・リウィウス・ドルスス (護民官) (紀元前91年没)