HISTORICAL PERSON · 1113年没

イド・ド・ブローニュ

ブローニュ伯ウスタシュ2世の妃。夫の死後は財産を貧者救済や教会建立に費やし、息子ゴドフロワら十字軍参加者の武運を祈り続け信仰篤い人物として列福された。

生涯
1113年没
死亡地
—
出生地
ベルギー王国(ルクセンブルク広域行政区 / アルデンヌ)
出典
世界地図
ベルギー王国(ルクセンブルク広域行政区)

伝記

イド・ド・ブローニュは、1040年頃、下ロレーヌ公ゴドフロワ3世とドダの娘として生まれた。ロレーヌのイドとも呼ばれ、父方にはカール大帝へ連なる血筋を持つ。祖父はロレーヌ公ゴツェロ1世、兄弟は下ロレーヌ公ゴドフロワ4世であり、教皇ステファヌス9世の姪でもあった。マンステールビルザン修道院で教育を受け、1056年頃、17歳でブローニュ伯ウスタシュ2世に嫁いだとされる。ただし、結婚を1049年とする説もある。

夫妻の間には、1058年頃にウスタシュ、1061年頃にゴドフロワ、1065年頃にボードゥアンが生まれた。イドは夫とともに、子供たちにキリスト教の教育を授けた。乳母に任せることを避け、自分で乳を与えて育てたとも伝えられる。これは、乳母の暮らし方や道徳が子供に及ぼす影響を案じたためとされる。信仰面では、ノートルダム・デュ・ベック修道院の院長を務めたアンセルムスの指導を受け、手紙を交わした。アンセルムスからイドに宛てた書簡の一部は現存している。

1087年に夫が死去したとされ、その後、イドは広い所領と財産の管理を担った。この財産を用いて貧しい人々を助け、教会や修道院を創設し、既存の建物も修復した。自分が学んだマンステールビルザンのほか、ブローニュのノートルダム教会、サン・ウルメール修道院などが援助を受けた。ピカルディにも複数の修道院を設け、カレー付近のノートルダム・ド・ラ・シャペルやル・ワストも、その活動と結びつく場所となった。教会との関わりを深めたが、修道女になったのではなく、ベネディクト会の在俗の奉献者であったと考えられている。

息子たちが第1回十字軍へ向かうと、イドは遠征費を多額に負担した。ゴドフロワの成功を祈り、聖地から送られた聖遺物を保護下の修道院に分け与えた。ウスタシュはブローニュ伯位を継ぎ、ゴドフロワはエルサレムの聖墓守護者となった。ボードゥアンはエデッサ伯を経てエルサレム王となった。イドは1113年4月13日に死去し、ル・ワストの修道院に葬られたとされる。同修道院の同時代の修道士がその生涯を著した。信仰と慈善によって福者として崇敬され、1478年にはフランス王ルイ11世がブローニュとその伯領の守護者に定めた。遺骸は1669年にパリへ、1808年にバイユーへ移され、同地で崇敬が続いた。

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