伝記
リドワーンは、1077年頃、セルジューク家の王子トゥトゥシュの長男として生まれた。父は大セルジューク朝のスルタン、マリク・シャーの弟であった。1078年にシリアと周辺を征服するため派遣され、翌年にはアレッポを占領し、その後ダマスカスやパレスチナにも勢力を広げた。1092年にマリク・シャーが死ぬと、父は大セルジューク朝の君主位を求めて争った。しかし1095年2月25日、イランのレイ近くで、甥バルキヤールクの軍に敗れて戦死した。アナに滞陣していたリドワーンは父の死を知ると、直ちにアレッポに戻り、シリア・セルジューク朝の後継者として君主位に就いた。
アンティオキアの支配者ヤーギー・スィヤーンは娘をリドワーンに嫁がせ、上級君主として認めた。同市ではリドワーンの名を刻んだ貨幣も鋳造された。ところがリドワーンは、兄弟が勢力を得て自分を倒すことを恐れ、アブー・ターリブとバフラームの二人を絞め殺した。別の兄弟ドゥカークは、アタベクのジャナーフ・アッダウラとともにアレッポを抜け出し、ダマスカスで独立した政権を築いた。リドワーンはこれを認めず、自分こそシリア・セルジューク家の唯一の正統な支配者だと主張し、ダマスカスを包囲した。しかし占領できずにアレッポへ戻り、父の国は互いに争う二つの政権に分かれた。兄弟はともにバルキヤールクの宗主権にも従おうとしなかった。
1096年、リドワーンは従兄弟スクマーン・イブン・アルトゥクが治めるスルージュを囲んだが、攻略には失敗した。その後エデッサを征服し、ハッラーンの獲得も考えたものの、指揮官たちの間の不穏な動きによって断念した。命令に背いた指揮官ユースフ・イブン・アバクを排除すると、トゥルベッセルを手に入れた。ドゥカークが不在の機会に再びダマスカスを囲んだが、敵軍が近づいていると聞いて包囲を解き、またアレッポへ引き返した。1097年に第1回十字軍がシリアへ来ても、兄弟の対立は収まらず、まとまった抵抗を行うことはできなかった。
1098年のアンティオキア陥落後、そこに成立した十字軍国家と争った。ボエモン1世はリドワーンの領内へ侵入し、アレッポの周辺にまで迫った。後継の摂政タンクレードとも戦ったが、その後は敵味方の組み合わせが変わった。モースルのジャワーリー・サカーワに対抗する際には、リドワーンとタンクレードが同盟した。ジャワーリー側にはエデッサのボードゥアン2世と、トゥルベッセル領主ジョスラン1世が加わっていた。リドワーンは金を渡して十字軍を遠ざけようともした。一方、アレッポではシーア派の人々に囲まれ、ニザール派イスマーイール教徒を保護した。市内に布教の拠点を設けることを認め、信仰と布教の自由を与えたため、同派はシリアで活動する足場を得た。
リドワーンには、ジャナーフ・アッダウラら政敵の暗殺への関与も疑われた。1113年12月10日に死去すると、アレッポではイスマーイール派に対する反発が強まった。後を継いだ息子アルプ・アルスラーンのもとでは、アタベクのルウルウが行政権を握り、ニザール派の勢力は排除された。若い後継者たちの下で権力争いが続き、1118年、アルトゥク家のイルガーズィーがアレッポを得て、同地のセルジューク家による支配は終わった。
同じ年に亡くなった人物
- スヴャトポルク2世 (1113年没)
- チャンシッター (1113年没)
- ゲルトルート・フォン・ザクセン (1030-1113) (1113年没)
- マウドゥード・ブン・トゥンテギン (1113年)
- イド・ド・ブローニュ (1113年没)
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