伝記
ティエリー2世は、1040年から1050年の間に、ロレーヌ公ジェラールとエドヴィジュ・ド・ナミュールの息子として生まれた。1070年に父が死ぬと、公位の継承をめぐってモンベリアル伯兼バル伯ルイ・ド・ムッソンと争うことになった。ルイの妻ゾフィアは、かつてのロレーヌ公フリードリヒ2世の娘であり、ルイはその相続権を根拠とした。ティエリーはロレーヌの貴族を集めて自らの権利を認めさせ、弟ジェラールにはヴォーデモン伯領を与えて支持を確保した。貴族の集会はティエリーを公に選んだが、まもなく死去したルイの主張を、その息子で同名のティエリーが引き継いだ。最終的には皇帝ハインリヒ4世が仲裁し、ティエリー2世の公領保有を認めた。
1075年頃、ヘートヴィヒ・フォン・フォルムバッハと結婚した。ヘートヴィヒはロタール・フォン・ズップリンブルクの母であり、この結婚からシモンとジェルトリュードが生まれた。帝国の家臣としてサクソン人に対する遠征に加わり、皇帝と教皇グレゴリウス7世らとの対立では皇帝側を支持した。領内では父の政策を受け継ぎ、居所であるナンシーの拡張と発展に取り組んだ。1080年にはノートルダム修道院を創建した。モレーム修道院に属するベネディクト会の施設で、ナンシーで最初の修道院であった。また1080年から1090年頃、ヌフシャトーに城を築いた。この城が守ったのは、聖ニコラ教会を中心とする新しい町である。のちには市場と造幣局も設けられ、町の経済を支えた。
最初の妻との死別後、1095年頃にジェルトリュード・ド・フランドルと再婚した。新しい妻はフランドル伯ロベール1世の娘で、ルーヴェン伯アンリ3世の未亡人であった。前の結婚で生まれた4人の娘の中には、後にシモンの妻となるアデライードもいた。ティエリーとジェルトリュードの間には、後にフランドル伯となるティエリーや、トゥール司教となるアンリらが生まれた。同じ1095年、教皇ウルバヌス2世がクレルモンでエルサレム解放を呼びかけると、公自身も十字軍への参加を考えた。しかし健康上の理由で教皇特使から誓約を免除され、ロレーヌの騎士たちに遠征への参加を勧めた。
その後、ハインリヒ4世と息子ハインリヒ5世の争いが起こると、一方への加担を拒んだ。さらに、その約10年後のハインリヒ5世とロタール・フォン・ズップリンブルクの対立でも、同じくどちらかの側につくことを避けた。ハインリヒ5世からは辺境伯の称号を授けられ、後継者たちも「ロレーヌ公および辺境伯」を称した。
1115年12月30日に死去した。埋葬先は自ら創建したナンシーのノートルダム修道院とも、母が創建し埋葬もされたシャトノワのサンピエール修道院ともいわれる。後者には公のものとされた横臥像付きの墓があったが、像を女性のものとみる解釈もあった。墓はフランス革命中に破壊された。子孫であるオーストリア皇帝フランツ1世は、1812年と1818年に修道院跡で発掘を行わせた。発見された遺骨は公夫妻のものとされたものの、改葬先のナンシーには届かなかった。シャトノワの住民が村の墓地か教会に埋め直したともいわれ、墓と遺骨の消失により、埋葬地の確定はできなくなった。
同じ年に亡くなった人物
- ジェルベルジュ・ド・プロヴァンス (1115年没)
- マティルデ・ディ・カノッサ (1115年没)
- アデル・ド・フランドル (1115年没)
- オレグ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公) (1115年没)
- 隠者ピエール (1115年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。