伝記
ベルトラード・ド・モンフォールは、1070年ごろに生まれた、モンフォール領主シモン一世とアニェス・デヴルーの娘である。1087年ごろまでに両親を失い、母の兄に当たるエヴルー伯ギヨームの後見を受けた。美貌で知られ、三十歳ほど年上のアンジュー伯フルク四世から結婚を求められた。この婚姻は政治的な取引の一部でもあった。メーヌの貴族の反乱を抑えたいノルマンディー公ロベールがフルクに援助を求めると、フルクはベルトラードとの婚姻を条件とした。後見人のギヨームも土地による補償を受けることで承諾した。フルクが反乱を鎮めた後、1089年に結婚し、ベルトラードは息子フルクを産んだ。
1092年、ベルトラードは夫のもとを去り、フランス王フィリップ一世のもとへ移った。王にはすでに妃ベルトがいたが、王はベルトをモントルイユの修道院に閉じ込め、ベルトラードと結婚した。ベルトラードが、フルクの前妻は存命で自分の結婚は無効だと王へ知らせ、再婚の意思を示したともいわれる。シャルトル司教イヴは両者の結婚に強く反対し、他の司教たちにも式に出ないよう求め、教皇に訴えた。一方、トロワやモーなどの聖職者は結婚を容認し、ランス大司教も式に出席した。イル・ド・フランスの住民の間では、二人の結びつきに理解があったとされる。
1093年、幽閉されていたベルトが死去すると、フィリップ一世は自分の婚姻の拘束が解けたとして、今度はベルトラードの最初の結婚を無効にするよう司教たちに求めた。しかし教皇は認めず、王の服従と悔悛を要求した。1094年、リヨン大司教で教皇特使のユーグによって破門され、1095年にはクレルモン公会議で教皇ウルバヌス二世が正式に確認した。王は1096年に別れたように装ったが、二人は夫婦としての生活を続けた。以後も離別と復縁、破門とその解除が1104年まで繰り返された。王の権威は損なわれ、第一回十字軍にも参加できず、先妻の子である王太子ルイが実権を握るようになった。
王との間にはフィリップとフルーリーの二男、セシルとウスターシーの二女が生まれた。ベルトラードは自分の息子を王位に就けようとし、イングランドに滞在中の継子ルイを捕らえるよう、同国の王ヘンリー一世に願ったとも、暗殺を企てたともいわれる。1108年にフィリップ一世が没すると、息子フィリップはモンフォール家や異父兄弟フルクらと結んでランスを占領し、ルイの戴冠を妨げた。しかしルイを支持する司教たちはオルレアンで戴冠式を行い、ルイ六世の即位を実現させた。ベルトラードの子らの企ては失敗し、二人の王子は所領を没収された。
失脚した王子たちはベルトラードの弟アモーリー三世のもとに身を寄せ、翌年にルイ六世と和解した。ベルトラード自身も、のちにルイ六世の計らいで前夫の領地アンジューへ戻った。1114年、フォントヴローで修道女となり、翌1115年にはオート・ブリュイエールのノートルダム修道院の女子修道院長となった。しかし厳しい修道生活は長く続かず、まもなく還俗した。1117年2月14日に没した。最初の結婚で生まれた息子はアンジュー伯フルク五世となり、さらにエルサレム王となった。
同じ年に亡くなった人物
- マリク・シャー (1117年没)
- ロベール・ダルブリッセル (1117年)
- ゲルトルート・フォン・ブラウンシュヴァイク (1117年没)
- オルデラッフォ・ファリエル (1117年)
- Anselm of Laon (1117年)
同じ地域に関係する人物
- フルク4世 (1109年没)
- アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン (1794年没)
- アニェス・ド・ポワティエ (1103-1159) (1159年没)
- ルイ・オーギュスト・ヴィクトル・ド・ゲースヌ・ド・ブルモン (1846年没)
- ジュリアン・グラック (2007年没)