伝記
マリク・シャーは、1096年ごろに生まれた、ルーム・セルジューク朝のスルタン、クルチ・アルスラーン一世の息子である。シャーヒンシャーとも呼ばれる。大セルジューク朝の同名のスルタンとは別人で、遠い親族に当たる。父には十二人の子があり、そのうち五人が男子であった。兄の一人は1107年より前に、ダニシュメンド朝との戦闘で死去している。父は1106年、アルトゥク朝からマイヤーファーリキーンを奪い、長く望んでいたマラティヤも手に入れた。
1107年、マリク・シャーは父のモスル遠征に同行した。住民に招かれた父が市内へ入り、スルタンを称すると、十一歳ほどのマリク・シャーを統治の任に当て、エミールのイドバルを後見役に置いた。父は守備の兵を残して、ムハンマド一世タパルが任命したモスルの支配者ジャワーリーに対抗するため出陣した。しかしハーブール川での戦いに敗れ、退却して川を渡る際に溺死した。ジャワーリーがモスルを取り戻すと、市はムハンマド一世の支配下へ復帰し、マリク・シャーは捕らえられてイスファハーンへ送られた。父の死後、ルームの王位はおよそ三年間空位となった。
釈放は1109年とも1110年ともいわれ、マリク・シャーはアナトリアへ戻り、1110年にコンヤのスルタンとなった。弟のマスウードとアラブを投獄したが、ダニシュメンド朝から攻撃を受け、その地位は安定しなかった。混乱を利用したビザンツ帝国はアナトリアの海岸部で攻勢に出た。トルコ勢力は高原の中央部へ移ろうとしたが、海岸からの後退では大きな犠牲を出した。ロパディオン近郊では野営中の一団が奇襲され、女性や子供を含むほぼ全員が殺されたという。マリク・シャーもビザンツへの対抗を試みたが、十分な成果を得られなかった。
1116年、フィロメリオンの戦いで皇帝アレクシオス一世コムネノスに敗れ、和平を結んだ。アナトリアでビザンツが奪回した領土を認めたとされ、かつての領土をすべて返還する約束だったともいわれる。ところが和平交渉のさなか、弟マスウードがダニシュメンド朝の支援によって権力を奪った。ダニシュメンド朝の君主ギュミュシュテギンは自分の娘をマスウードに嫁がせており、和平を口実にマリク・シャーを廃した。マリク・シャーは捕らえられて目を潰され、弓の弦で絞め殺された。条約は無効となり、ルームの支配はダニシュメンド朝の影響下にあるコンヤ周辺へ縮小した。アンナ・コムネナは、経験ある将軍の作戦をしばしば無視し、嘲った支配者としてマリク・シャーを厳しく評している。
同じ年に亡くなった人物
- Anselm of Laon (1117年)
- オルデラッフォ・ファリエル (1117年)
- ロベール・ダルブリッセル (1117年)
- ベルトラード・ド・モンフォール (1117年没)
- ゲルトルート・フォン・ブラウンシュヴァイク (1117年没)
同じ地域に関係する人物
- バヤズィト1世 (1403年没)
- シェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年) (1553年没)
- ピリ・メフメト・パシャ (1532年没)
- Konca Kuris (1998年没)
- ジャラール・ウッディーン・ルーミー (1273年没)