HISTORICAL PERSON · 1909年没

アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン

ヴィクトリア朝の詩人。死や無宗教などの主題を繰り返し扱い、発表当時は大きな物議をかもした。

生涯
1909年没
死亡地
イギリス連邦(ワンズワース区 / パットニー)
出生地
イギリス連邦(ロンドン)
出典
世界地図
イギリス連邦(ワンズワース区)

伝記

アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンは、1837年4月5日にロンドンのグローヴナー・プレイスで生まれたヴィクトリア朝イングランドの詩人である。その詩には、官能的な被虐への関心、死の衝動、同性愛、無宗教といった主題が繰り返し現れるため、発表当時は大きな物議をかもした。小説『アルジャーノンに花束を』に登場するハツカネズミの名は、彼にちなむものという。父チャールズ・ヘンリーは海軍大佐で、のちに大将となり、母は第3代アシュバーナム伯爵の娘ジェイン・ヘンリエッタである。6人の子の第一子で、幕末の日本に赴任した外交官アルジャーノン・ミットフォードは、母方の従兄弟にあたる。

ワイト島の近郊で育ち、1849年から1853年までイートン・カレッジで学んだ。詩を書き始めたのはここである。1856年から1860年にはオックスフォード大学ベリオール・カレッジに進んだが、1859年から翌年5月までは、短い停学処分を受けている。夏の休暇は、ノーサンバーランドの祖父の家で過ごした。祖父のジョン・スウィンバーン卿は有名な図書館を所有し、ニューカッスルの文学・哲学協会の会長だった。彼はノーサンバーランドを自分の故郷と考え、その思いは、強い愛国心に満ちた詩に反映された。ポニーにまたがって荒野を乗り回す、剛胆な騎手でもあった。1857年から60年にかけては、ウォーリントンホールのトレヴェリアン夫人の知的なサークルに加わり、1860年の祖父の死後は、詩人・画家のウィリアム・ベル・スコットの家に滞在した。1862年12月に、スコットとその客人たちとタインマスを旅したとき、海辺を歩きながら、未発表の『プロセルピナ讃歌』などを朗読した。波の音が遠い喝采のように聞こえたと、スコットは回顧録に書いている。

大学ではラファエル前派と関係を持ち、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの親友になった。卒業後はロンドンに住み、積極的に執筆活動を始めた。作品には、『カリドンのアタランタ』(1865年)、『詩とバラード第1集』(1866年)、『日の出前の歌』(1871年)、『詩とバラード第2集』(1878年)、『トリストラム・オブ・ライオネス』(1882年)、『詩とバラード第3集』(1889年)がある。死後に出版された小説『レズビア・ブランドン』もある。『詩とバラード第1集』は初版発表時にセンセーションを巻き起こした。とくに問題となったのは、古代ギリシアの女性詩人サッポーへのオマージュとして書かれた詩である。一方、中世風の形式と口調で書かれた詩は、ヴィクトリア朝の魅力を表現した。『時の勝利』『ドロレス』なども、この集に含まれている。フランスの詩形ロンドーの変化形であるロンドー体(ラウンデル)も考案し、1883年に、クリスティーナ・ロセッティに捧げた詩集を出した。その詩には、赤ちゃんや小さな子供たちを主題にしたものが24あり、エルガーが曲をつけたものもある。

彼はアルコール使用障害で、非常に激しやすい性格だった。そのため健康が損なわれ、1879年、42歳のとき、心身ともに衰弱し、友人セオドア・ワッツ=ダントンの世話で、プットニーの家で残りの人生を送ることになった。以降は若いころの反抗精神を失い、社会から尊敬される人物となった。デカダン派の詩人と見なされるが、実際にやった放蕩以上に、自分を悪徳ぶっていたと思われる。1909年4月10日、72歳で亡くなり、ワイト島のボンチャーチに埋葬された。

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