HISTORICAL PERSON · 2017年没

ジョン・サーティース

イギリスのレーサー。二輪のロードレース世界選手権と四輪のF1の両方で、世界チャンピオンになった唯一の人物である。

生涯
2017年没
死亡地
イギリス連邦(ワンズワース区 / セントジョージ病院)
出生地
イギリス連邦(タッツフィールド)
出典
世界地図
イギリス連邦(ワンズワース区)

伝記

ジョン・サーティースは、1934年2月11日に生まれたイギリスのレーサーで、2輪のロードレース世界選手権と、4輪のフォーミュラ1の両方で世界チャンピオンになった唯一の人物である。ロンドン南部のオートバイ販売業者の息子で、父ジャックはグラストラック競技の名手であり、1948年にはサイドカーの地域チャンピオンにもなった。15歳で初のレースに出場し、16歳だった1950年にビンセント社の工場で見習いとして働き始めた。1951年には、ノートンのスターだったジェフ・デュークに強い挑戦を挑んで注目を集めた。

1955年、ノートンのレース責任者から、サーティースは初の工場支援を受けて走る機会を与えられた。この年の終わりに、当時の世界チャンピオンのデュークをシルバーストンとブランズハッチで破った。しかし、ノートンの経営は苦しく、レース計画も定まらなかったため、イタリアのMVアグスタ工場チームの誘いを受け入れた。そこではまもなく「風の息子」というあだ名で呼ばれるようになった。1956年に500ccクラスで世界チャンピオンになり、これはMVアグスタにとって最高峰クラスで初のタイトルだった。1958年から1960年にかけては、39レースのうち32レースに勝ち、マン島TTのシニアクラスを3年続けて制した最初の人物となった。350ccと500ccの両クラスで王座を獲得し、世界選手権での計7つのタイトルを得た。イタリア語を習得した彼は、「イル・グランデ・ジョン」と呼ばれて人気を博した。

1960年、26歳のときに4輪に転向し、ロータスからフォーミュラ1にレギュラーとして参戦した。2戦目のイギリスGPで2位に入り、3戦目のポルトガルGPではポールポジションを獲得した。同じチームにジム・クラークがいたため、1961年は別のチームに移ってプライベーターとして走った。1963年にフェラーリへ移ると、技術者的なセンスを生かして車の開発に貢献し、ドイツGPでF1初勝利を挙げた。1964年には、同じイギリス人のクラークやグラハム・ヒルと激しく争い、最終戦の残り2周でクラークがトラブルに見舞われる幸運もあって、ヒルとわずか1点差でチャンピオンになった。
1965年9月25日、カナダのモスポートで、スポーツカーの練習中に、部品の破損により命にかかわる事故に遭った。1966年には、ベルギーGPで優勝した直後に、ル・マン24時間レースの出場者の割り当てをめぐってチーム監督のエウジェニオ・ドラゴーニと衝突し、フェラーリを去った。この年に始まった北米のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップでは、ローラの車で初代チャンピオンになった。1967年にはホンダに移り、ローラのシャシーにホンダのエンジンを載せたRA300が製作された。サーティースはこの車で、1967年のイタリアGPを制し、ホンダの第1期F1活動の最後の勝利を挙げた。

1970年には自らのチームを立ち上げてオーナードライバーとして参戦し、1970年代前半にドライバーとしての活動をほぼ終えた。チームは1978年にF1から撤退した。引退後はホンダ車の販売店を営んだ時期もある。2003年にはモトGPの殿堂入りを果たした。長男のヘンリーもレーシングドライバーになったが、2009年7月19日、ブランズハッチでのレース中に、外れたタイヤが頭を直撃する事故で、18歳の若さで亡くなった。サーティース自身は、2017年2月から呼吸器の病気で入院していたが、3月10日に死去した。

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