伝記
ハサン・サッバーフは、イスラム教シーア派のイスマーイール派から分かれたニザール派の開祖である。のちに暗殺教団と呼ばれる集団の最初の指導者で、山の長老とも呼ばれた。生まれた年は知られておらず、11世紀半ばごろと考えられている。テヘランの南にあるクムの十二イマーム派の家に生まれ、父はイラクのクーファの出身で、遠い祖先はイエメンの人だったと伝えられる。クムは10世紀以降、十二イマーム派の中心地として栄えた町で、ハサン自身も初めはその信徒だった。
7歳のころから学問を志し、17歳ごろまでレイで数学、天文学、イスラームの宗教諸学を学んだという。当時のレイは、ファーティマ朝が各地へ送り出していたイスマーイール派の宣教師がイランで活動する中心の拠点であり、ハサンはここでイスマーイール派と出会った。後代の歴史家が伝える自伝の断片によれば、アミーラ・ザッラーブという人物から教義の感化を受け、ファーティマ朝のカリフに忠誠を誓ったとされる。1072年、レイで管区長のアブドゥル・マリク・イブン・アッターシュから宣教師の資格を認められて正式な信徒となり、カイロへ行ってカリフに謁見するよう命じられた。1078年から数年のあいだ、ファーティマ朝の宮廷で研究を行った。エスファハーンに戻ってからは、宰相ニザームルムルクを避けながらイランで宣教を続け、成果をあげた。
1090年、ハサンはイラン中西部のカズヴィーン近くにある要塞アラムートを手に入れて拠点とし、のちに山の長老と呼ばれるようになった。1091年から1092年にかけては、アラムート周辺の改宗に功のあった宣教師フサイン・ガーイニーをホラーサーン南東部のクヒスターン地方へ送った。ガーイニーの布教で住民の大部分がニザール派に改宗したらしく、同時に、抑圧的な支配で恨まれていたセルジューク朝のアミールを退けたことから、外から来た政権に対する民衆の蜂起という性格も論じられている。イラン周辺の山岳地帯の城塞を中心に、ニザール派の勢力圏は少しずつ広がった。
1094年にファーティマ朝の第8代カリフが死ぬと、後継者争いで廃嫡されたニザールを支持し、その代理人を名のってニザール派を形づくった。城塞の奪取や要人の暗殺によってセルジューク朝に抵抗し、その独特の戦術からアサッシン教団、すなわち暗殺教団と呼ばれた。教団は、絶対的な権威への服従を説くタアリーム理論にもとづく新教説によって結束を保った。ハサン自身は禁欲的な生活を守り、それを破った息子たちを処刑したという逸話も残る。アラムートに入ってからは、城塞の一室からほとんど出ず、禁欲の生活と教義の著作、教団の内外への指示に日々を費やしたといわれる。1124年5月、ランマサル城塞の主に任じていた人物を後継者に指名し、伝道局と軍事部門の人事も定めたうえで、同月23日にアラムート城内で死去した。
ハサンの生涯には伝説も多い。13世紀前半にイブン・アル=アスィールは、ハサンを「明敏、有能にして、幾何学、数学、魔術その他に精通した人物」と評した。1256年、フレグの遠征でアラムートが落ちると、モンゴル軍はニザール派の文書を接収した。その中にはハサン自身の教令や著作、自伝があり、ジュヴァイニーは『世界征服者史』にこの自伝を引いた。イランの歴史学がイスマーイール派を語るときは、この記述に多くを頼っている。ニザームルムルクが最初の暗殺の犠牲者だったとも伝えられ、後世には、ニザームルムルク、ウマル・ハイヤームと若いころ同じ師のもとで学んだという話も語られたが、年齢が離れすぎており、根拠のない伝説とみられる。
同じ年に亡くなった人物
- ノジャンのギベール (1124年)
- アレグザンダー1世 (スコットランド王) (1124年没)
- ボジヴォイ2世 (1124年)
- カリストゥス2世 (ローマ教皇) (1124年没)
- ケレスティヌス2世 (対立教皇) (1124年没)
同じ地域に関係する人物
- アフマド・ガザーリー (1126年没)
- タフマースブ1世 (1576年没)
- ロバート・シャーリー (1628年没)
- イスマーイール2世 (1577年没)
- ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー (1349年没)