伝記
コンスタンス・ド・フランスは、1078年ごろに生まれたカペー家の女性である。フランス王フィリップ1世と王妃ベルトの第1子で、5人きょうだいのうち父の最初の結婚から生まれた唯一の娘であり、のちのルイ6世の姉にあたる。1093年から1095年の間に、父はトロワ伯領を継いだばかりのユーグ・ド・ブロワと彼女を結婚させた。このとき彼女は父からアティニーと聖ヴォーブールの礼拝堂を結婚の贈り物として受け取っている。フィリップ1世は、臣下のアンジュー伯フルク4世の妻ベルトラードを奪って結婚しており、敵対するフルク4世に対抗するため、強力なブロワ家に影響力を及ぼそうとしたのである。しかしこの同盟は遅すぎたとされる。ブロワ家の伯領のほとんどは、ユーグの兄エティエンヌ2世がすでに継承して10年が過ぎており、エティエンヌ2世はイングランド王ウィリアム1世の娘アデルと結婚していたからである。
コンスタンスとユーグの間には息子マナセが生まれたが、1102年に死んだ。結婚から10年後、理由は分からないまま彼女は婚姻の無効を請求し、1104年12月25日にソワソンでこれが認められた。シャルトルのイヴの助けがあったともいわれる。父王は破門されては離婚と復縁を繰り返しており、娘の離婚に一切手を貸さなかったため、彼女は弟のルイを頼ったという。無効のあと、彼女は前夫の兄の妻アデルの宮廷に身を寄せた。アデルは夫が聖地で死んだ後、幼い息子に爵位を継がせて自らは伯領の摂政となっていた人物である。
このころ、トルコ人から解放されたばかりのアンティオキア公ボエモン1世が、聖地の十字軍への支援を得るためヨーロッパに戻っていた。彼は聖地から持ち帰った聖遺物を贈り、サラセン人との戦いの武勇談を語って各地で聴衆を魅了し、大軍を集めていった。そして1106年、コンスタンスはボエモン1世と結婚した。式は3月25日から5月26日の間にシャルトル大聖堂で挙げられ、祝宴は交渉にも参加したアデルの宮廷で開かれた。新郎はこの機会に貴族たちへ東方で戦うよう促し、甥のタンクレードと、コンスタンスの異母妹セシルとの結婚も取り決めた。結婚後、夫妻はプーリアへ向かい、1107年から1108年ごろに長男ボエモンが生まれ、次男ジャンも生まれたが幼くして死んだ。ボエモン1世は東ローマ帝国と戦うためプーリアを発ったが、ドゥラッツォで敗れて捕らえられ、デアボリス条約への署名を強いられた。東ローマ皇帝アレクシオス1世がアンティオキア公国の宗主となり、摂政タンクレードは条約の承認を拒んだ。ボエモン1世はバーリに退いて1111年に死去した。
夫の死後、コンスタンスは長男の名のもとで摂政として権力を行使し、フランス王の娘として女王の称号を用いた。1113年にはバーリの人々に追われ、1116年にはアレクサンデル・ディ・コンヴェルサーノに誘拐されてマテーラに幽閉されたが、解放されると200人の騎士を連れて戻り、彼の領地を荒らした。1117年にはリソ司教との関係が良くなってバーリに戻ったが、司教はまもなく殺され、1119年にバーリ領主を名乗ったグリモアルド・アルフェラニテスに投獄された。1120年に教皇カリストゥス2世の介入で解放されたものの、バーリに対する自らの権利を手放さなければならなかった。彼女は9月14日に死去した。没年は1125年とも1126年ともいわれる。息子のボエモン2世は、その後アンティオキア公国を継承するため東方へ向かった。
同じ年に亡くなった人物
- アフマド・ガザーリー (1126年没)
- ウラカ (カスティーリャ女王) (1126年没)
- ヴルフヒルト・フォン・ザクセン (1126年没)
- ラグンヴァルド (1126年)
- セシル・ド・ノルマンディー (1126年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ヤンヌ (2003年没)
- ミシェル・ルブロン (2009年没)
- ドン・ペリニヨン (修道士) (1715年没)
- Edouard Marcelle (2001年没)
- アウグスト・マッケ (1914年没)