HISTORICAL PERSON · 1910年没

エドワード7世 (イギリス王)

サクス=コバーグ=ゴータ朝初代のイギリス国王でインド皇帝。治世に日英同盟や英仏協商が結ばれ「ピースメーカー」と呼ばれた。

生涯
1910年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / バッキンガム宮殿)
出生地
イギリス連邦(バッキンガム宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

エドワード7世は、1841年11月9日、ロンドンのバッキンガム宮殿で、ヴィクトリア女王と王配アルバートの第2子(長男)として生まれた。全名はアルバート・エドワードで、同年12月4日にプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の称号を得て、王室内では「バーティ」と愛称された。母ヴィクトリア女王の在位が長期にわたったため、皇太子の立場には非常に長くとどまった。幼少期から少年期は、厳格な両親の教育方針のもと家庭教育で育てられた。きかん坊だったが、3歳年下の弟アルフレッドが一緒に勉強するようになると、手本になろうと勉学に励んだという。とくに語学に優れ、英語、ドイツ語、フランス語を完璧に話せるようになった。姉ヴィクトリアが1858年にプロイセンの王子に嫁いでからは、両親の目が彼に集中し、息のつまるような生活を送った。1852年に初の外国訪問としてベルギーを、1855年には両親とパリを訪れ、皇子のいなかったナポレオン3世に我が子のように可愛がられた。1859年にはイタリアに留学したが、統一戦争の勃発で帰国を命じられた。

同年10月にオックスフォード大学に入学した。イギリス歴代国王で初めて大学で学んだ人物である。1860年にはカナダとアメリカ合衆国を歴訪し、各地で歓迎され、ホワイトハウスではブキャナン大統領のもてなしを受けた。1861年夏に陸軍に入り、10月にはケンブリッジ大学へ転校したが、不良行為が増えた。11月に父アルバートが体調の悪い中を訪れて説教し、これが原因で体調を悪化させた父は、12月に崩御した。女王は息子のせいでアルバートが死んだと考えるようになり、彼を公務から遠ざけた。

1863年3月にデンマーク王女アレクサンドラ(アリックス)と結婚し、ノーフォークにサンドリンガム邸を購入した。二男三女に恵まれ、長男はクラレンス公アルバート・ヴィクター(エディ)、次男は後のジョージ5世である。翌1864年、妻の母国デンマークとプロイセン・オーストリアが戦うと、彼は戦争の仲裁のための国際会議を後援したが失敗に終わり、デンマークは両公国を失った。以後、夫妻は反プロイセン的な立場となった。1869年にはエジプトやトルコ、ギリシャを訪れた。同年、ある准男爵の離婚訴訟で証人として出廷し、皇太子としての資質を疑われた。女王の引きこもりもあって王室人気は危機に瀕した。しかし1871年末に腸チフスにかかって命の危機に瀕し、劇的に回復したことで人気を取り戻した。1875年から翌年にかけて英領インドを訪れ、女王の名代としてインドの藩王たちに勲章を与えた。1891年には賭博をめぐる醜聞で再び法廷に立つことになり、批判が高まった。1892年1月に長男エディが亡くなり、次男が後継者となった。

1901年1月22日、母が崩御し、59歳で即位した。王名を「エドワード7世」とし、王朝名をサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝とした。1902年8月9日にウェストミンスター寺院で戴冠式が行われた。在位中は1905年まで保守党、その後は自由党が政権を担い、保守党政権期にはバルフォア教育法が制定され、自由党政権期には老齢年金法が制定された。外交では、日英同盟、英仏協商、英露協商が結ばれ、日本、フランス、ロシアとの関係が強まったため「ピースメーカー」と呼ばれた。一方、ドイツとの関係は悪化し、崩御の4年後に第一次世界大戦が始まった。1910年5月6日、過労で気管支炎を悪化させて崩御した。治世は「エドワード朝」と呼ばれる。

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