HISTORICAL PERSON · 1127年没

ドゥース1世 (プロヴァンス女伯)

1112年に母からプロヴァンス伯位を継いだ女伯。バルセロナ伯ラモン・バランゲー3世と結婚し、翌年プロヴァンスなどの権利を夫に譲った。のち継承問題がブサンク戦争を招き、子孫のバルセロナ家が勝利した。

生涯
1127年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ドゥース1世は、1090年ごろに生まれ1127年に没したとされるプロヴァンス女伯である。オック語ではドルサとも呼ばれ、ジェヴォーダン子爵ジルベール1世と、プロヴァンス女伯ジェルベルジュの娘にあたる。父は1055年に生まれて1111年に没し、母は1060年に生まれて1115年に没した。姉にエティエネット(ステファニーとも)がいたとされ、ドゥースは幼いころをル・ピュイ、カルラ、アルルのあいだで過ごした。

父は旧来のプロヴァンス貴族に属する「悪党ども」に殺害された。共同で保有されていたプロヴァンス伯領は、母とトゥールーズ家のあいだで分けられた。母は有力な後ろ盾を求め、ドゥースをカタルーニャのバルセロナ家のラモン・バランゲー3世に嫁がせることにした。ラモン・バランゲー3世はバルセロナ伯でありジローナ伯でもあった。すでに持参財を与えられていた姉エティエネットは、伯領で有力な一族の長であるボー領主のもとへ嫁いだ。

1112年、ドゥースは母からプロヴァンス伯位を継承した。同年2月3日にはアルルでラモン・バランゲー3世と結婚し、夫はプロヴァンス辺境伯となった。翌1113年、ドゥースはプロヴァンス、ジェヴォーダン、ミヨー子爵領、カルラデに対する権利を夫に譲った。この年に長男ラモン・バランゲー4世が生まれ、続いてバランゲー・ラモンが1114年ごろ、ベレンゲラが1116年、ベルナトが1117年に生まれたが、ベルナトは幼くして世を去った。

バルセロナの宮廷については、18世紀の修道院長パポンが、宮廷文学とトゥルバドゥールの歴史はドゥースの宮廷に始まり、南フランスの言語に基づいたものだと述べた。かつて有力だった見方では、プロヴァンスの吟遊詩人はこの時期にカタルーニャへ入り、カタルーニャ語でさえプロヴァンスから入ったとされた。民族主義的な歴史家は、これをオック語圏の拡大の始まりとし、ピレネー山脈の両側の地を統合する壮大な計画だったと見る。実際にこの結婚によって、バルセロナ家はオクシタニアに大きな関心を寄せ、トゥールーズ伯と対立することになった。ドゥースの死の直前にあたる1125年には、プロヴァンスの分割についての署名がなされている。

没年ははっきりしない。名が文書に最後に現れるのは1125年で、1127年のほか、1130年以後とも1131年ともされるが、夫の遺言より前に没したことは確かである。夫は死の少し前、遺言で領地を二人の息子に分け、長男にバルセロナ伯領を、次男にプロヴァンスを与えた。ドゥースの子は八人とも七人ともいわれ、1118年ごろにエティエネットが、1125年にドゥースが、1126年にアルモディスが生まれている。長男ラモン・バランゲー4世は1162年まで、次男バランゲー・ラモンはプロヴァンス伯として1144年まで生きた。ベレンゲラは1128年にカスティーリャ王アルフォンソ7世と結婚している。ドゥースの死でプロヴァンスは不安定な時代に入り、継承をめぐる争いは1144年から1162年のバウクス戦争を引き起こしたが、勝利したのはドゥースの子孫のバルセロナ家であった。ドゥースとラモン・バランゲー3世の子孫は、1267年のベアトリス・ド・プロヴァンスの死まで、プロヴァンス伯領を治めることになる。

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