HISTORICAL PERSON · 紀元前205年没

マヒンダ

マウリヤ朝のアショーカ王の長男と伝えられる古代インドの仏僧。20歳で出家し、国王を帰依させて仏教をスリランカにもたらした。ミヒンタレーに僧院と仏塔を建て、スリランカで80歳まで生きたとされる。

生涯
紀元前205年没
死亡地
スリランカ民主社会主義共和国(アヌラーダプラ県 / アヌラダープラ)
出生地
インド(パータリプトラ)
出典
世界地図
スリランカ民主社会主義共和国(アヌラーダプラ県)

伝記

マヒンダは、古代インドの仏僧で、スリランカに仏教をもたらした人物として伝えられる。紀元前285年に生まれ、紀元前205年に没したとされる。マウリヤ朝の第3代の王アショーカとその妻の長男と伝えられ、父は「偉大なインドラ」を意味するマヘンドラという名を与えた。のちに20歳で出家し、マヒンダと名乗るようになった。

出家は家族の勧めによるものという。その後、父の師であるモガリプッタ・ティッサのもとで三蔵を学び、第三回仏典結集のとき、教えを伝えるためスリランカへ派遣された。アショーカは当初、長男に王位を継がせたいと望んだ。しかし、ヴァイシャの母を持つ者が仏教国の王位を継ぐことはヒンドゥー教の慣例上認められず、本人にもその意思がなかったため、断念したとされる。スリランカへ赴いた理由は、年代記では宗教的なものと描かれるが、歴史家の間では、継承者争いから逃れさせるためにアショーカがサーンチーへ派遣したのであり、政治的な理由のほうが大きかったと考えられている。

スリランカの年代記『マハーワンサ』と『ディーパワンサ』には、次の伝説が残る。満月の夜、祭りの日にスリランカへ着いたマヒンダは、狩りのためミヒンタレーまで来ていたアヌラーダプラ王国のデヴァーナンピヤティッサの前に、頭を剃った姿で現れた。王はアショーカと親しく、マヒンダとも会ったことがあったが、出家した姿に驚き、最初は誰か分からなかったという。挨拶ののちマヒンダがスートラを説き、王家の狩りの宴で仏教の教えが語られた。一行はアヌラーダプラにも招かれ、宮中の宴で法を説いた。さらに王宮と庭園で説話を行うことを認められ、ここからスリランカの仏教の布教が始まった。使用されたマハーメガ庭園には弟子たちが暮らすようになり、のちに初期のスリランカ仏教の中心となった。首都に集まった人々に1か月ほど説法を続けたのち、マヒンダはミヒンタレーに退いたという。

仏教徒の女性たちがサンガに加わることを望んだため、マヒンダは、尼であった姉妹のサンガミッターを呼び寄せた。このとき、ブッダガヤから菩提樹の枝が持ち込まれた。マヒンダはミヒンタレーに戻って王国第二の僧院を建て、これがチェティヤギリ僧院にあたるとされる。さらにその僧院に仏塔を築き、マウリヤ朝から仏舎利を取り寄せたと伝えられる。デヴァーナンピヤティッサの死後も生き、80歳でスリランカで没したとされる。王の息子ウッティヤは国葬を営み、ミヒンタレーに遺物を納める仏塔を建てた。スリランカの年代記と碑文は、紀元前3世紀ごろに島へ仏教が広まったことを示している。

一方、歴史家からは疑問も出されている。アショーカの碑文には、息子を出家させてスリランカの王を帰依させよと命じた記述がなく、菩提樹の話にも触れていない。ドイツのインド学者ヘルマン・オルデンベルクは、この話は歴史的に不正確だと主張し、アショーカの研究者も同じ考えを支持している。仏僧が着いた年も、年代記は紀元前255年、碑文は5年早い紀元前260年とし、食い違う。それでもラージャガラの碑文には、マヒンダが島を訪れて仏教を伝え、そこで没したと記されている。20世紀の僧ワルポラ・ラウラは、仏典をシンハラ語に訳して注釈したマヒンダを「スリランカ文学の父」と呼んだ。ミヒンタレーは今も重要な巡礼地であり、到着したとされる6月の満月の日は、上座部仏教で大切な日とされる。

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