伝記
プトレマイオス4世は、古代エジプトのプトレマイオス朝の第4代ファラオである。紀元前244年に、プトレマイオス3世と王妃ベレニケ2世の第2子、長男として生まれた。誕生は父の即位から約2年後のことで、姉に同母のアルシノエ3世があり、弟にはリュシマコス(名は不確か)、アレクサンドロス、マガスの3人がいた。一家の像は、アイトリア同盟によってテルモスとデルポイに建てられたことが知られる。父の時代の王国は、第3次シリア戦争でセレウコス朝を破り、東地中海沿岸のほぼ全域を押さえて最盛期を迎えていた。一方で、紀元前245年にはプトレマイオス朝の支配に対する最初の土着エジプト人の反乱も起きていた。
紀元前222年の10月から12月ごろに父が死ぬと、20歳ほどのプトレマイオス4世が王位に就いた。若い王は、廷臣ソシビオスと、愛人アガトクレアの兄アガトクレスの強い影響下に置かれたという。即位に際しては王族の大規模な粛清が行われ、叔父のリュシマコスもこのとき殺されたとみられる。母ベレニケ2世は軍の人気が高かった弟マガスを支持していたと考えられ、マガスは入浴中に熱湯を浴びせられて殺され、ベレニケ2世もまもなく世を去り、毒殺されたと伝えられる。この粛清の主導者については、アガトクレスの讒言に基づくともいわれ、ソシビオスの画策ともいわれて、断定はできない。一方、姉のアルシノエ3世は王に近い存在となり、紀元前220年までに結婚した。兄弟姉妹の結婚はエジプトの王家で一般的な慣行であった。
紀元前219年から、セレウコス朝のアンティオコス3世との第4次シリア戦争が始まった。アンティオコス3世は紀元前221年にコイレ・シリアへ侵攻したが、当時の総督テオドトスに退けられ、東方の総督モロンの反乱への対応を迫られていた。紀元前219年に再び攻め込んでセレウコス・ピエリアを奪うと、宮廷で不人気だったテオドトスが敵側に寝返り、コイレ・シリアと艦隊の相当部分がセレウコス朝の手に渡った。同じころアレクサンドリアでは、スパルタ王クレオメネス3世が武装蜂起を試みたが、市民の呼応を得られず失敗し、仲間とともに自害した。ポリュビオスはこれを政権への深刻な脅威として描いている。コイレ・シリアの周辺では激戦が続き、最終的にラフィアの戦いで、土着エジプト人を主力に加えたエジプト軍が勝利し、コイレ・シリア周辺を確保した。この戦いは、ヘレニズム時代最大級の会戦の一つとされる。原住民の貢献により、マケドニア人やギリシア人の支配層は彼らの重要性を認め、以後は配慮を強めざるを得なくなった。
古代の史料は、この王が政治や外交よりも贅沢や宮廷の儀礼に関心を寄せ、大酒を飲んで放蕩したと批判する。統治の末期には、国の南部が反乱を起こした土着のファラオに奪われて支配を失った。父の代に最盛期を迎えた王朝は、この王のころから国力を落とし、宮廷の腐敗が強まったともいわれる。愛人アガトクレアを寵愛したことで、廷臣たちの影響力も増していったとされる。プトレマイオス朝の衰退は、一般にこの王の時代から始まったとされる。紀元前204年、王は不可解な状況で急死し、ソシビオスらによる暗殺説もある。王妃アルシノエ3世も殺害され、幼いプトレマイオス5世が即位した。
同じ年に亡くなった人物
- アルシノエ3世 (紀元前204年没)
- キュレネのラキュデス (紀元前204)
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