伝記
ウマル・ハイヤームは、セルジューク朝期のペルシアに生きた学者であり詩人である。一〇四八年五月十八日に、ホラーサーン地方の都市ニーシャープールの近くで生まれ、一一三一年十二月四日に世を去ったとされる。没年には一一二三年とする説もある。現代ペルシア語風にオマル・ハイヤームとも読まれる。「ハイヤーム」は天幕造りを意味し、父の職業に由来するという。ニーシャープールの職人の家の出と考えられており、幼いころはバルフの町で過ごした。そこで当時屈指の学者とされたムハンマド・マンスーリーの個人指導を受け、青年期にはニーシャープールのイマーム・ムワッファクのもとで学んだ。
有名な伝承によれば、同じ師のもとには、のちセルジューク朝の宰相となるニザーム・アル・ムルクと、のちに暗殺教団の指導者となるハサニ・サッバーフがおり、三人は、誰かが幸運をつかんだら分け合おうと誓い合った。ニザームが宰相になると、ハサニは高官の地位を求めて得たが、野心のあまり宰相を陥れようとして失敗した。ウマルは地位を望まず、研究と祈りのできる場所を求め、ニーシャープールの財務庫から毎年黄金千二百ミスカルの年金を受ける権利を得たという。ただしこの話は史実としては確認されておらず、ウマルとニザームの生年が三十年ほど離れていることからも、信憑性は疑わしいとされる。
数学と天文学に通じた学者として、ウマルは、一〇七三年に、スルタンのマリク・シャーに招かれたとされる。メルヴに建てられた天文台で、八人の学者の筆頭として暦法の改正にあたり、ジャラーリー暦を作ったとされる。これは三十三年に八回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確だったといわれ、現在のイラン暦の元になったともいう。一方で、この暦は結局採用に至らなかったとも記されている。別の記述では、一年の長さを小数点以下六位まで正しく測ったともされる。数学では三次方程式を、放物線と円の交点によって解く方法とその解の分類で名高く、二項展開の発見や、ユークリッドの平行線の理論を批判する書物も知られる。この批判は欧州に伝わり、非ユークリッド幾何学の発展に寄与したとされる。『代数学問題の解法研究』などの著作は今日も広く知られている。
詩人としては、四行詩ルバーイイを数多く詠んだ。ルバーイイは短い形式のなかで詩人の心の動きを瞬時に書きとめるのに適しており、ハイヤームは宗教的な批判との摩擦を避けて詩を広めないよう配慮した形跡があるという。十三世紀の文献にようやく少数の作が名前とともに現れ、真作とされる最古のものは、神学者ラーズィーの注釈書などに引かれた数首である。そこには創造主の意図は誰にも分からないという疑いが表れている。一〇九二年に後ろ盾であったマリク・シャーと宰相ニザームを失ったのちは、内にこもり、酒や美女をたたえたとも語られる。もっとも、どの作が真作かは現在も定まっていない。
彼の詩は一八五九年、イギリスの作家による英訳『オマル・ハイヤームのルバイヤート』を通じて英語圏に広まり、『ルバイヤート』として各国で翻訳されている。生前は科学的な業績で母国でも知られ、詩人としての名は主に英語圏の読者を通じて広まった人物である。また、神学者ガザーリーは、イブン・スィーナーの大著『指示と勧告』についての講義をハイヤームから受けたとも伝えられる。当時は神学の正統が知的な探究を狭めていく時代で、ハイヤームはその閉塞のなかでイブン・スィーナーの学問を受け継いだ知識人だったと、日本語版の記事は位置づけている。
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