伝記
クィントゥス・ファビウス・マクシムスは、共和政ローマの政治家、将軍である。第二次ポエニ戦争でカルタゴの名将ハンニバルに持久戦略で対抗し、「ローマの盾」と称された。通称のクンクタートルはラテン語で「のろま」「ぐず」を意味し、ウェッルコススは「いぼ」を意味する。後者は上唇にあったいぼに由来し、同じ一族の他の人物と区別する呼び名だったという。生年は紀元前275年とも280年ごろともいわれる。
ファビウスは、パトリキの中でも名門のファビウス氏族に生まれた。祖父か曽祖父にあたるクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルッリアヌスは、サムニウム戦争の英雄であった。プルタルコスによれば、少年のころは穏やかな気性で口数が少なく、学ぶのにも苦労し、遊びにも慎重で臆病にさえ見えたが、それは思慮深く揺るがぬ精神の表れだったと評されている。10歳、紀元前265年の若年で鳥卜官に就任し、以後およそ62年間この職にあったという。第一次ポエニ戦争に参加したかどうかは、詳しい動きが伝わらず不明である。戦後は政治家として頭角を現し、紀元前237年ごろに財務官、紀元前235年に高等造営官を務めた。紀元前233年の最初の執政官のときにはリグリア人を破って凱旋式を許され、紀元前230年には監察官、紀元前228年には二度目の執政官となった。
紀元前219年にハンニバルがローマの同盟市サグントゥムを攻撃すると、ファビウスは抗議の使節団に加わった。カルタゴが要求を拒み、サグントゥム陥落の報も届くと、使節団を代表して宣戦を布告し、第二次ポエニ戦争が始まった。紀元前217年、トラシメヌス湖畔でローマ軍が大敗すると、元老院は事態の収拾のためファビウスを独裁官に任じた。通常は執政官が任命するので異例であり、騎兵長官には政敵のマルクス・ミヌキウス・ルフスが充てられた。ファビウスは、根拠地から遠く兵站に弱点を抱えるカルタゴ軍に正面から挑むのは無謀と考え、敵の進路上の土地を焦土にして略奪を防ぎ、影のように後を追って消耗を待った。この持久戦略は、のちにファビアン戦略と呼ばれるようになった。
しかし焦土にされた土地の人々やミヌキウス、元老院までがこれを非難し、クンクタートルは当初は蔑称として用いられた。ミヌキウスは一部の軍の指揮を任されると独断で攻撃に出たが、ハンニバルの罠にかかって大損害を受け、ファビウスの救援で救われた。ミヌキウスは彼を第二の父と呼び、優れた指揮官と認めたとされる。紀元前216年、決戦を挑んだ執政官ウァロがカンナエで壊滅的に敗れると、元老院も民衆も彼の戦略の正しさを認め、クンクタートルは「細心、周到」を表す敬称へと意味を変えた。
その後もファビウスは紀元前215年に補充執政官に選ばれ、翌紀元前214年にはマルケッルスと共に執政官となって持久戦略を続けた。イタリア半島で決定的な衝突は起きず、孤立したハンニバルは弱体化した。紀元前209年にはタレントゥムを制圧したが、これは城方の内応によるものだった。彼の真骨頂は戦略面にあったとされる。ファビウスは、ハンニバルのイタリアからの排除を優先していたためか、スキピオ・アフリカヌスのアフリカ遠征には反対し、その活躍でポエニ戦争が終わるのを見ないまま、紀元前203年に世を去った。ファビアン戦略の名は、後にイギリスの社会改良を志向するフェビアン協会の名の由来ともなった。
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