伝記
サー・ジョセフ・ダルトン・フッカーは、1817年6月30日、サフォーク州ヘイルズワースで生まれたイギリスの植物学者である。著名な植物学者ウィリアム・ジャクソン・フッカー卿と、銀行家の娘マリア・サラ・ターナーの次男だった。7歳から、父が教授を務めるグラスゴー大学で父の講義に出席した。幼い頃から、植物の分布と、ジェームズ・クックのような航海探検に関心を持っていた。グラスゴー・ハイスクールを出て、グラスゴー大学で学び、1839年に医学博士を取得した。そのため、海軍に軍医として雇われた。
1839年から1843年にかけて、ジェームズ・クラーク・ロスの南極探検の航海に加わった。探検隊はフッカーが乗るエレバス号とテラー号の二隻からなり、フッカーは乗員128人のなかで最も若かった。彼はロバート・マコーミックの助手で、1839年9月30日に出航し、カーボベルデやマデイラ、テネリフェ、トリニダード島、セントヘレナ島、喜望峰などに立ち寄った。各地で植物を採集し、藻や海洋生物を網で集めて、絵に描いて記録した。ケープから南極海に入り、ケルゲレン諸島などを経て南極大陸に到達し、5か月を南極大陸で過ごしてから、補給のためホバートに戻った。シドニーとニュージーランドを経て再び南極へ出発し、1843年9月4日にイングランドへ帰還した。この航海は、南極大陸の測量に初めて成功したものとされる。
帰国後、エジンバラ大学では学究の職を得られず、グラスゴー大学の職は辞退して、1846年にはグレートブリテン島の地質調査隊の植物学者を引き受けた。古植物学の研究を始め、ウェールズの炭層で化石植物を探した。ダーウィンの師ジョン・ヘンズローの娘フランシスと婚約したが、旅行をしてフィールドの経験を積みたいと望んだ。父は、このころキューガーデンの園長に指名されており、個人的な人脈を通して、南極航海の補助金や、息子の植物相の研究のための年金を確保した。持ち帰った植物は、「南極大陸の植物相」(1844-1847)に詳述された。ここで島が植物地理学に果たす役割を論じ、分類学者としての名声を形作った。さらに「ニュージーランドの植物相」(1851-1853)や「タスマニアの植物相」(1853-1859)を出版した。
1847年11月、フッカーは3年に及ぶヒマラヤ探検のためにイギリスを出発した。彼はヒマラヤで植物を採集した最初のヨーロッパ人である。1848年1月にカルカッタに着き、象やボート、ポニーで1848年4月にダージリンに到達し、博物学者ブライアン・ホジソンの家を拠点にした。シッキムへの入域を協議したが、一時、シッキムの藩王に捕らえられた。1850年にダージリンを出発し、11月まで滞在した後、イングランドへの帰途についた。この探検は『ヒマラヤン・ジャーナルズ』として公刊された。南極から帰ると、ダーウィンのビーグル号の航海の植物標本の整理も請け負った。1843年末から文通を始め、翌1844年はじめには、ダーウィンから「殺人を告白するようなものですが、種は変化すると確信しました」と書き送られた。科学者としては、おそらくダーウィンの理論を最初に打ち明けられた人物である。後にダーウィンは彼を、共感を得つづけることができたただ一人の人物だと表現した。1873年から1878年まで王立協会の会長を務め、1911年12月10日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ジュアン・マラガイ (1911年没)
- ヨハン・スヴェンセン (1911年没)
- トーマス・ウェントワース・ヒギンソン (1911年没)
- アルベルト・ラーデンブルク (1911年没)
- プリトビ・ビール・ビクラム・シャハ (1911年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・ブラウン (使用人) (1883年没)
- ヘンリー・ウォットン (1639年没)
- ジョージ3世 (イギリス王) (1820年没)
- ジョージ4世 (イギリス王) (1830年没)
- モンタギュウ・ロウズ・ジェイムズ (1936年没)