伝記
ステファン・ハーディングは、カトリック教会の修道会であるシトー会の創設者の一人で、3人のうち「最も重要」と評される人物である。1060年ごろ、イングランドのドーセットに貴族の家系の子として生まれたと見られる。シェアボーンの修道院で学んだのちヨーロッパへ旅立ち、フランスでも学問を修めて、後に「すばらしい学者」と評されるようになった。ローマへ巡礼し、その帰りに立ち寄ったブルゴーニュのモレーム修道院に入会した。この修道院は1075年にモレームのロベールが、聖ベネディクトゥスの戒律に従う理想的な修道生活を求めて設立したものである。
やがてモレーム修道院は、ロベールのもともとの意図に反して世俗的な発展を見せ、理想の修道生活にそぐわなくなっていった。戒律やほかの聖人の文献を皆で研究し議論するうちに、修道士たちは現状はあるべき姿ではないという結論で一致した。1098年、モレームのロベールに率いられ、戒律の遵守にもっとも熱心な21人が修道院を後にして、ディジョン近郊の森シトーを開拓した。ステファンもその中にいた。小さな木造の礼拝堂が建てられて新しい修道生活が始まり、2代目院長アルベリックの時代には、石造の教会堂が最初の礼拝堂の2500メートルほど南に建てられた。
1109年にアルベリックが死ぬと、ステファンが3代目の院長として跡を継いだが、そのころシトーは経済的に困窮しはじめていた。ステファンは聖書の写本を各地から集めて比べ、異同を見つけて、ヘブライ語やアラム語の原典も参照しながら誤りを改めたという。必要ならユダヤ人のラビにも意見を聞いたとされる。シトー修道院の書写室でつくられた全4巻の聖書は、1109年までに完成し、鮮やかな挿絵に彩られていた。1111年には、大グレゴリウスの『道徳論』とヒエロニムスの『注解』の写本もつくられた。1112年、クレルヴォーのベルナルドゥスが30人ほどの富裕層の仲間とともに入会を求めてきた。この巡り合わせでシトー修道院は危機を脱し、シトー会はヨーロッパ全域に子院を広げていくことになる。
院長のあいだに、1113年にラ・フェルテ、1114年にポンティニー、1115年にモリモンの修道院が相次いで設立され、これらはシトー修道院とともに最初の4子院として特別に扱われた。1114年にはシトー会の憲法ともいうべき『愛の憲章』が書かれた。各修道院は完全に自主独立しながら、共通の生活様式と愛によって横のつながりを保つとする内容で、1119年にローマ教皇カリクストゥス2世に認可された。聖歌についても原点を厳しく追い、ミラノから直接取り入れたアンブロシウス聖歌だけを歌うよう命じた。『創立史』には、餓死か凍死かという困窮の中で、空の荷馬車を町へ向かわせた修道士が、死んだ金持ちの多額の喜捨で食糧を満載して帰ったという伝説が記されている。
ステファンは病気のため1133年に院長を退いた。この年の総会には、増えた子院から69名の院長が集まったという。1134年3月28日にシトー修道院で死去し、敬愛した先代のアルベリックと同じくシトーに埋葬された。死後にベルナルドゥスが聖歌を改め、ステファンは1623年に列聖された。
同じ年に亡くなった人物
- アルフォンソ1世 (アラゴン王) (1134年没)
- クサンテンのノルベルト (1134年)
- ニルス (デンマーク王) (1134年没)
- ユーグ2世 (1134年)
- ロベール2世 (ノルマンディー公) (1134年没)
同じ地域に関係する人物
- カトリーヌ・ド・ブルゴーニュ (1426年没)
- ユーグ5世 (ブルゴーニュ公) (1315年没)
- アンリ1世 (ブルゴーニュ公) (1002年没)
- アルベリック (1100年代没)
- ボンヌ・ダルトワ (1425年没)