HISTORICAL PERSON · 1134年没

ロベール2世 (ノルマンディー公)

ウィリアム征服王の長男。父の死後ノルマンディー公を継ぎ、弟たちと王位を争ったが、タンシュブレーの戦いでヘンリーに敗れ、囚人として生涯を終えた。

生涯
1134年没
死亡地
イギリス連邦(カーディフ / カーディフ城)
出生地
フランス共和国(ノルマンディー公国)
出典
世界地図
イギリス連邦(カーディフ)

伝記

ロベール2世は、短袴公と渾名されるノルマンディー公で、1051年または1052年に生まれ、1134年2月に没した。在位は1087年から1106年である。ノルマン・コンクエストでイングランドを征服したウィリアム征服王と、マティルダ・オブ・フランダースの長男にあたる。渾名の由来は、アングロ・ノルマン語でショートブーツを意味する語とも、低身長を表す語ともいわれる。父の死後にイングランド王を継いだ弟ウィリアム赤顔王、さらに末弟ヘンリーと、続けて対立した。

1058年、アンジュー伯に占領されたル・マンを逃れてルーアンに亡命したメーヌ伯エルベール2世は、子がなく、ウィリアムを自らの相続人に指名し、妹マルグリットをロベールと婚約させたと同時代の記録は伝える。エルベールの死後、ウィリアムはル・マンを占領し、1063年に息子を同地の伯に据えた。当時11歳か12歳のロベールは、宗主のアンジュー伯に臣従礼を行ったが、真の支配者は父であった。ロベールは1066年の征服には参加しなかったが、父は1063年の時点で彼を後継者に指名していた。1067年には、父の不在中に母を補佐してノルマンディーを治めたが、責任の具体的な内容は不明である。

1069年にメーヌの反乱貴族がノルマン人を追放し、父が介入したのは4年後であったが、成人していたロベールはこの遠征に加わらなかった。決裂は1077年、南部での軍事行動の準備中にレーグルで、弟のウィリアムやヘンリーといさかいを起こしたことに始まる。ロベールは一行とともに立ち去り、ルーアンの要塞の奪取を試みて失敗し、ユーグ1世のもとに身を寄せてレマナール城に拠ったが、征服王に包囲され陥落した。その後はフランドル伯ロベール1世、次いでフランス王フィリップ1世の宮廷へ逃れた。歴史家は、実権も財源も与えられない不満が背景にあったとする説と、世代間の対立とみる説を挙げる。1079年のジェルブロワ近辺の衝突では、父が腕を負傷して落馬し、これはおそらく息子によるものであった。両者は1080年に和解したが、ロベールは1083年に再び亡命した。

1087年9月9日に父が没すると、ロベールは父の意向でノルマンディー公位を継いだが、統治は初めから困難を極めた。ノルマン貴族たちが公の守備隊を追放して城砦を握り、私戦が再び広がった。ヘンリー1世の治世に書かれた年代記は彼を「脆弱で怠惰」と描いており、治世への評価は極めて否定的である。1091年、赤顔王がノルマンディーに上陸して兄弟は和解し、互いを後継者に指名した。二人は協力して、公から領地を得ていたヘンリーをモン・サン=ミシェルに包囲し、降伏させた。しかし1093年のクリスマスにロベールが条約を破棄し、関係は再び悪化した。

1096年、ロベールは1万マルクの銀と引き換えに公国の統治を赤顔王に委ね、教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じて第1回十字軍に出発した。ドリュラエウムの戦いやアンティオキア攻囲戦で役割を果たし、1099年8月12日のアスカロンの戦いでは敵の軍旗を奪ったとされる。東方で領土を得ることはなかったが名声を得て、南イタリアから連れ帰った妻とともに帰還し、ギヨーム・クリトンが生まれた。だが帰還時には、弟の赤顔王が死去し、ヘンリーがすでにイングランド王位を奪っていた。1101年にポーツマスへ上陸したが、外交交渉で衝突は避けられ、年金と引き換えに王位請求権を放棄した。結局ロベールは、タンシュブレーの戦いでヘンリーに敗れて身柄を拘束され、囚人として生涯を終えた。

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