HISTORICAL PERSON · 1138年没

シモン1世 (ロレーヌ公)

ロレーヌ公。領内の司教たちと対立する一方でクレルヴォーのベルナールと親交を結び、シュトゥルゼルブロン修道院など多くの修道院を建設した。

生涯
1138年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

シモン1世は、ロレーヌ公(在位1115年から1138年)である。1076年ごろに生まれ、父はロレーヌ公ティエリー2世、母はヘートヴィヒ・フォン・フォルムバッハとされる。母についてはフランドルのゲルトルートの子とする説もあったが、親族関係を調べると、ヘートヴィヒの子とするのが正しいとされている。シモンは、のちの神聖ローマ皇帝ロタール3世の異父弟にあたる。1112年か1113年に、ルーヴァン伯アンリ3世の娘アデライードと結婚した。1115年に父の跡を継いでロレーヌ公となった。

皇帝との友好の方針は父から受け継いだ。1122年には皇帝ハインリヒ5世に同行してヴォルムスの議会に出席し、その会議で叙任権闘争は解決に至った。一方で領内では司教たちとの争いが絶えなかった。バル伯の同盟者であるメス司教エティエンヌ・ド・バルや、トリーア大司教アダルベロン・ド・モントルイユと対立したが、二人がシモンの父ティエリー2世に対して行ったロレーヌの領有権の主張は、ハインリヒ5世の父ハインリヒ4世によって退けられていた。サン・ディエの参事会員たちとの争いをきっかけに、大司教は最初の破門を行ったという。彼は領地の税が重すぎるとも非難された。また、ルミルモンの女子修道院長たちの許しを得ずに修道院の土地に城を築いて争った。彼が友人としていたクレルヴォーのベルナールは、シモンの妻に手紙を送ってとりなした。シモンは要塞を壊したが、修道院の土地を奪い、教皇はトゥールとメスの司教に修道院を守るよう求め、シモンを破門して公領に聖務停止を課した。さらにバイエルン公やサルム伯の助けを得てトリーア大司教の要塞をいくつも奪い、あとから援助に来たロタールとともに大司教の領地を荒らした。大司教は彼を破門し、その領地に聖務停止を課した。教皇インノケンティウス2世は、大司教による破門を解いた。

1132年には、プレモントレ修道会を創設したノルベルトが、シモンの妻が暮らすプレニーの館を訪れた。夫妻はノルベルトにサント・マリー・オー・ボワの谷を贈ったとされる。シモンは多くの修道院を公領に建て、1135年にはシトー会のシュトゥルゼルブロン修道院も建てた。伝説によれば、妻アデライードは宮廷風の文学の影響を受けて館で数多くの宴を開いたが、ベルナールが訪れたことで慎み深くなり、これがシュトゥルゼルブロン創建の動機になったともいわれる。

シモンは1138年1月13日に没した。周囲の人々は、彼が教皇によって破門されていたことを知らず、遺体はまずサン・ディエの参事会教会に葬られたが、この教会は聖務停止を受けていた。そのため遺体はシュトゥルゼルブロンに移されて、あらためて葬儀が行われた。聖務停止は4年後、教皇によって解かれた。シュトゥルゼルブロンは、その後約1世紀、ロレーヌ公の墓所となった。妻アデライードは夫の死後、ル・タール修道院で修道女となった。夫妻の子には、のちにロレーヌ公となるマチュー1世、フロランジュの領主ロベール、ブルゴーニュ伯ルノー3世の妻となったアガット、バーデン辺境伯ヘルマン3世の妻となったベルト、シュポンハイム伯ゴットフリート1世の妻となったマティルドらがいる。

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