HISTORICAL PERSON · 1138年没

フセヴォロド・ムスチスラヴィチ (ノヴゴロド公)

ノヴゴロド公。商人団体イヴァン商人団を組織したが市民反乱で追放され、晩年はプスコフ公として過ごし後にロシア正教会で列聖された。

生涯
1138年没
死亡地
ロシア連邦(プスコフ州 / プスコフ)
出生地
ロシア連邦(ノヴゴロド)
出典
世界地図
ロシア連邦(プスコフ州)

伝記

フセヴォロド・ムスチスラヴィチは、ノヴゴロド公としてこの地を治め、のちにプスコフ公となった人物である。キエフ大公ムスチスラフと、スウェーデン王インゲ1世の娘クリスティーナとの長男で、父がノヴゴロド公であった時期にノヴゴロドで生まれたとされる。生年は分からず、1095年以降の生まれとされる。聖名はガヴリイル(ガブリエル)という。

1117年、父がキエフ大公の位につくにともない、ノヴゴロド公に任じられた。1123年にはチェルニゴフ公家の娘と結婚し、同年にノヴゴロドの軍を率いてチュヂ族と戦った。同じ年にはフィン人とも争っている。こうした遠征はその後も続き、1130年にも行われ、数年にわたった。1127年から1130年にかけては、市内にオポキの聖イヴァン教会を建てた。1128年には息子のイヴァンを亡くしている。商人団体であるイヴァン商人団を組織したことが勅令から知られ、この団体は聖イヴァン教会に委託されて、蝋や蜂蜜の取引を行った。1131年にはチュヂ族との戦いに敗れた。

1132年に父が没すると、叔父のヤロポルクの命でペレヤスラヴリ公に移された。ところがヤロポルクの意図は、フセヴォロドを自分の相続人にしようとするものだと年少の兄弟たちは見て、ロストフ・スーズダリ公ユーリーが彼を追い出してペレヤスラヴリを手に入れた。ノヴゴロドの人々は、彼がペレヤスラヴリへ移ったことを裏切りとみなし、いったんは受け入れを拒んだともいわれる。しかし1133年にはふたたびノヴゴロドの軍を率いてユーリエフ(現在のタルトゥ)を占領した。同じ年に、市場の聖ゲオルギー教会と生神女就寝教会(大主教ニフォントとともに建てた)を築いている。ユーリエフ修道院の聖ゲオルギー教会も彼が建てたものである。その後、ヤロポルクが送り込んだ兄弟のイジャスラフがペレヤスラヴリの統治に失敗してノヴゴロドへ退くと、フセヴォロドはイジャスラフとともに、ユーリーの治めるロストフ・スーズダリ公国へ遠征した。1134年または1135年のジャナヤ・ゴーラの会戦である。しかし彼らはここで敗れた。ノヴゴロドの人々は、このとき彼が決断力に欠けたと見たともいわれる。

敗戦の後、ポサードニクのコンスタンチンの支援を得て公位を保ったが、1136年にノヴゴロドの市民が反乱を起こした。5月28日、フセヴォロドは妻や家族とともに大主教の邸にとどめ置かれ、7月中ごろに出ることを許されて、キエフの叔父ヤロポルクのもとに身を寄せた。ヴィシゴロドを与えられている。翌年、軍を率いてノヴゴロドへ戻ろうとしたが、プスコフへ退き、最晩年はプスコフ公として過ごして、1138年2月11日に没した。このノヴゴロドからの追放は、ソ連の歴史学者グレコフにより「12世紀のノヴゴロドの革命」と呼ばれ、ノヴゴロド共和国の幕開けと位置づけられている。遺体はプスコフに葬られ、のちに至聖三者大聖堂に移されたとされる。1549年に列聖され、記憶日は2月11日、4月22日、11月27日である。

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