伝記
ヨハン・アウグスト・ストリンドベリは、1849年1月22日に生まれ、1912年5月14日に没したスウェーデンの劇作家、小説家である。ストックホルムに生まれ、ウプサラ大学に入って自然科学を学んだが、中途で退学し、1874年に王立図書館助手となった。その間の1870年には、王立劇場へ一幕物を提出して採用され、上演された。1872年に史劇『メステル・ウーロフ師』を発表したが認められず、その憤懣のはけ口として、1879年に諷刺小説『赤い部屋』を発表して名声を得た。1877年には男爵夫人と結婚した。
史劇、童話劇、ロマン的史劇などを発表し、1883年にフランスに行った。1885年に、社会主義的傾向をもつ短篇集『現実のユートピア』と『結婚』を書き、後者は1884年に宗教を冒涜するものとして告訴され、フランスから国外退去を命じられた。1886年には自伝的小説『女中の子』『ある魂の成長』を発表した。『痴人の告白』は1893年にフランス語で書かれたが、ドイツ語で初めて発表された。ブランデスとニーチェの影響のもとで精神的貴族主義に転じ、小説『チャンダラ』『大海のほとり』を書いた。1887年の戯曲『父』や『令嬢ユリェ』(1888年)などは、日本でも訳書がある。
1891年に離婚し、1892年にベルリンへ移った。居酒屋「黒仔豚亭」で、ポーランドのジャーナリスト、プシビシェフスキや、ノルウェーの画家ムンクと交友を持った。1893年にオーストリアの女流作家と結婚したが、2年後に不幸な結果に終わった。1894年にパリに移り、自然科学、特に錬金術に没頭した。スヴェーデンボリの影響を受けて神秘主義に接近し、不幸な結婚生活を回顧して、自伝的小説『地獄』と『伝説』を書き、戯曲『ダマスクスへ』によって自然主義から離れた。オカルト研究でも知られ、金の製造の研究をしていた。若い頃から科学のファンでもあり、『アンチバルバルス』を書いたときは大科学者としての名声を期待したが、「詐欺師」「馬鹿」と言われたという。
1899年からストックホルムに定住し、『グスタフ・ヴァーサ』をはじめ多くのスウェーデン史劇や、ルターを主人公とした『ヴィッテンベルクの夜鶯』を書いた。1901年に女優と結婚したが、1904年に離婚した。長篇小説『ゴシックの部屋』『黒い旗』は、この頃の混乱した精神から生まれた。1907年に〈親和劇場〉を設立し、その劇場のために『室内劇』を書いたが、経営困難のため3年後に閉鎖した。晩年の随筆集『青書』には、ふたたび社会主義的な関心が示されている。
絵をアカデミックな形で学んだことはなかったが、友人の画家から習って絵も描いた。劇作家や小説家としての知名度ほどではないが、象徴的な絵画で知られ、高く評価されている。画家カール・ラーションとは1879年から交流があり、ラーションに著書の挿絵を依頼したが、1908年にストリンドベリが著書でラーションを批判したことから、二人の関係は終わった。画家リッカルド・ベリが彼を描いた肖像画は、ベリの最も有名な絵画の一作となった。没後、全集が1912年から1921年にかけて55巻で刊行された。
同じ年に亡くなった人物
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