伝記
ジュール・エミール・フレデリック・マスネは、1842年5月12日にフランスのロワール県モントーで生まれた作曲家である。30作品以上を作曲したオペラの分野で最も知られ、『マノン』『ウェルテル』は、今も主要なオペラハウスのレパートリー演目となっている。『タイス』の間奏曲「タイスの瞑想曲」は、ヴァイオリン独奏曲としても人気がある。父は裕福な鉄商人、母は才能に恵まれたアマチュア音楽家で、4人の子の末っ子であるマスネは、母からピアノの手ほどきを受けた。1848年初頭までに、一家はパリに移住し、サン=ジェルマン=デ=プレのアパートに居を構えた。マスネは、リセ・サン=ルイで教育を受け、1851年または1853年からパリ音楽院に通った。回顧録によれば、1851年10月、9歳のときに審査団の前で試験に臨み、ただちに入学を許可されたという。一方、伝記作家は、入学試験と合格は1853年1月の出来事だとしている。
1855年のはじめ、父の健康状態が悪化して、一家が南フランスに転地したために、学習を中断することになった。復学して1859年には、音楽院のピアノ科で最優秀賞を取るまでになった。一家の経済状態は思わしくなく、収入の足しにピアノの生徒を取り、歌劇場で打楽器を担当した。オーケストラピットでの仕事は、グノーをはじめとする作曲家のオペラについての実践的な知識をもたらした。ピアノ伴奏者としての仕事の関係で、ベルリオーズとともに音楽上の2大英雄であったワーグナーにも出会った。尊敬するアンブロワーズ・トマに師事し、1863年に国内最高の音楽賞であるローマ賞を獲得した。受賞者は3年間の研修を与えられ、その3分の2をローマのヴィラ・メディチで過ごす。音楽面の恩恵の大部分は、独学によるものだった。リストにも出会い、リストの裕福なパトロンの娘ニノンにピアノの稽古をつけて、恋仲になった。
1866年にパリへ戻り、ピアノを教えて生計を立てた。トマの勧めで、1幕のオペラ=コミックを作曲し、1867年4月に上演された。1868年には、ジョルジュ・アルトマンと出会い、アルトマンが彼の作品の出版を手掛けるとともに、25年にわたって導いていった。1866年10月にニノンと結婚し、1868年に一人娘のジュリエットを授かった。普仏戦争では、友人ビゼーとともに国民衛兵に志願兵として加わった。マスネは多作で、朝4時から昼まで作曲するという生活を終生続けた。『マハーバーラタ』を題材とした4幕のオペラは、1877年に完成し、新作としては2年前に落成したガルニエ宮で上演された最初期の作品となった。成功を収め、各国の歌劇場でも上演された。1876年にレジオン・ドヌール勲章のシュバリエに叙され、1878年にはトマが学長となったパリ音楽院で、対位法、フーガ、作曲の教授となった。同年、30代でフランス学士院入りを果たし、空席を争って敗れたサン=サーンスは憤慨した。
音楽院では、尊敬と人気を集める教師で、生徒のアイデアを引き出すことに注意を払い、決して自らの考えを押し付けなかった。門下からは、シャルパンティエ、ショーソン、ピエルネ、アーンらが輩出した。1896年にトマが他界すると、職を辞した。晩年は、多くの評論家から時代遅れで保守的であると見なされたが、『マノン』『ウェルテル』は国の内外で人気を保った。一時は無視される時期もあったが、20世紀半ばに再評価の機運が高まり、作品の多くは上演や録音の機会を得ている。1912年8月13日に没した。
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