伝記
マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスは、紀元前3世紀後期の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前220年と紀元前210年に執政官を務めたとされ、紀元前200年に没した。貴族のウァレリウス氏族の出身で、この氏族は共和政ローマ最初の執政官の一人プブリウス・ウァレリウス・プブリコラを輩出し、その後も執政官を出し続けた。父も祖父もプラエノーメンはプブリウスで、紀元前280年の執政官プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌスが祖父と思われる。
紀元前227年、法務官としてローマに併合されて間もないサルディニア属州の初代総督となった。紀元前220年の執政官については、クィントゥス・ムキウス・スカエウォラとともに就任したとする記録がある一方、別の記録は同年の執政官をカトゥルスとピロとしており、確かなのは紀元前210年の就任である。第二次ポエニ戦争の前に、有力な平民氏族フルウィウス氏との関係を深め、マルクス・フルウィウス・ノビリオルの未亡人と結婚した。紀元前215年には二度目の法務官となり、ルカニアとアプリアの戦線を受け持った。ハンニバルがマケドニア王ピリッポス5世と同盟すると、元老院は彼にマケドニアの侵攻に備えて南イタリアの海岸を守るよう命じ、この任務は何度か延長された。
紀元前214年、ピリッポスはイリュリアに侵攻してアポロニアを攻めたが、激しい抵抗に遭ってオリクに目標を替え、これを占領した。オリクの市民から救援を求められたラエウィヌスは、翌日にはバルカン半島へ渡ってオリクを奪還した。再び包囲されていたアポロニアの使節が着くと、副司令のクィントゥス・ネウィウス・クリスタに2,000の分遣隊を与えて夜襲させ、マケドニア軍を破った。ピリッポスは船で脱出しようとしたが、ラエウィヌスがアオイ川の河口を封じていたため、船を焼いて陸路で退いた。続く3年間もバルカン半島にとどまり、アエトリア同盟、ペルガモン、スパルタ、エーリス、メシニとの対マケドニア同盟を築いた。アエトリア同盟が陸戦を、ラエウィヌスが海上の作戦を担い、紀元前212年にはザキントス島などを占領し、紀元前211年にはアンティキラを落とした。これでピリッポスはイタリアへ上陸できなかった。
こうした成功により、ローマを離れたまま紀元前210年の執政官に選ばれ、同僚はマルケッルスだった。くじで、ラエウィヌスはイタリア、マルケッルスは反乱中のシキリアの担当となったが、うまくいかず、元老院は担当の交換を命じた。ラエウィヌスはシキリアでアグリゲントゥムを強襲して占領し、住民をすべて奴隷とした。さらに6都市を攻め落とし、20都市はローマに寝返り、40都市は戦わずに降伏した。全島がローマの支配に戻り、シキリアはイタリアへの穀物供給源となった。軍事のため、メッセネ、パノルムス、リリュバイウムを結ぶ道路も舗装した。紀元前209年から206年までは前執政官としてシキリアを治め、穀物をローマとタレントゥムに送ることを重んじ、紀元前208年と207年にはアフリカ沿岸の襲撃に成功した。
紀元前205年にはマゴがリグリアに上陸したため、エトルリアへ2個軍団を送った。紀元前203年にカルタゴとの講和が議論されると、継戦を支持し、講和は成らなかった。紀元前201年には執政官に派遣され、ピリッポス5世に最後通牒を突きつけた。紀元前200年に死去し、息子たちは4日間の競技会を開いて故人を悼み、25組の剣闘士の試合が行われた。息子は3人で、長男マルクス、プウリウス、ガイウスである。末子のガイウスはフルウィウス氏の未亡人との間の子とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・リウィウス・アンドロニクス (紀元前200年没)
- プブリウス・ウィッリウス・タップルス (紀元前 200年(推定))
- カーラヴェーラ (紀元前 200年(推定))
- Pantaleon (紀元前200)
- エウテュデモス2世 (紀元前200)
同じ地域に関係する人物
- イータロ・ガリボルディ (1970年没)
- ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官) (紀元前70年代没)
- マルクス・アウレリウス・クレアンデル (190年没)
- オットー2世 (神聖ローマ皇帝) (983年没)
- レオポルド2世 (トスカーナ大公) (1870年没)