伝記
アリアラテス5世(エウセベス・フィロパトル)は、紀元前163年から130年まで三十年余り在位したカッパドキアの王である。先王アリアラテス4世と、高貴なギリシア系の女性で、セレウコス朝のアンティオコス3世の娘であるアンティオキスとの間の子で、当時の人々から人柄のすぐれた人物と評され、哲学や自由学芸を深く愛したことで知られる人物である。歴史家のなかには、カッパドキア王のうちで最も偉大な王とみなす者もいる。
若いころについては、ローマで教育を受けたとするリウィウスの記述があるが、これは同名の別人を指すのかもしれないといわれる。むしろアテナイで青年期を過ごしたとみられ、のちのペルガモン王アッタロス2世ピラデルポスと親しくなったらしい。父から王権に加えられて共同統治者となり、即位後はローマに使節を送って、王国とローマとの友好条約を更新させた。元老院の好意的な返答に力を得て、セレウコス朝の摂政リュシアスのもとへも使者を出し、母と姉妹の遺骸の返還を求めたという。元老院から派遣された二人の使節が、カッパドキアとガラティア人のトロクミ族との争いを調停し、王はまた、セレウコス朝の王の死後に独立した君主のようにふるまっていた人物に対し、ソフェネ王ミトロバザネスの領土を併合しないよう働きかけた。さらにローマ元老院へ改めて使節を送って服従の意を伝え、贈り物を献上した。
ローマの意向をはばかって、ペルセウスの未亡人でデメトリオス1世ソテルの妹であるラオディケ5世との結婚を断ったため、デメトリオスはアリアラテスに戦いをしかけた。デメトリオスは、先王の子とされる王の弟オロフェルネスを王位請求者として担ぎ出し、紀元前159年ごろにその主張を支持した。王は国を追われ、紀元前158年ごろローマへ逃れて、執政官らの前でオロフェルネスの使者たちと争った。ローマは王を助け、同盟者であるペルガモン王に復位を命じた。ローマはオロフェルネスとの共同統治を認めたが、まもなくアリアラテスが単独の王となった。紀元前154年にはペルガモン王アッタロス2世がビテュニア王プルシアス2世と戦った際、息子のデメトリオスに軍を率いさせて援助した。王はその後もローマの忠実な同盟者であり続けた。
妻はポントス王ファルナケス1世の娘ニュサで、六人の子をもうけた。ところがニュサは、自分が政権を握ろうとして、一人を除く子らを殺したという。五人を毒殺したともいわれ、末の子だけが近臣に助け出された。のちにニュサは、その残酷さのために民衆に殺され、生き残った息子がアリアラテス6世として王位を継いだ。アリアラテスは紀元前130年、ローマがペルガモンのアリストニコスと戦った戦争のなかで戦死した。この戦いでローマを支えた見返りとして、リカオニアとキリキアが一族の領土に加えられたとされる。また、ローマが王の息子たちにフリュギアを与えたとも伝えられる。
王は熱心なギリシア文化の愛好者で、アテナイの市民権を贈られたほか、カッパドキアのマザカとティアナの二つの町を再建して、いずれもエウセビアというギリシア風の名を与えた。またアテナイとその諸機関にも惜しみなく寄付をし、職業俳優の組合が王と王妃に感謝を記した碑文が今も残る。哲学者カルネアデスと書簡を交わしていたことは、ディオゲネス・ラエルティオスが伝えており、学問への関心の深さがうかがえる。
同じ年に亡くなった人物
- セクストゥス・アエリウス・パエトゥス・カトゥス (紀元前 200年(推定))
- Artapanus of Alexandria (紀元前200)
- クィントゥス・ファビウス・ピクトル (紀元前 200年)
- マルクス・フルウィウス・ノビリオル (紀元前159年の執政官) (紀元前 200年(推定))
- ハロンノフリス (紀元前200)
同じ地域に関係する人物
- ロジャー・デルガード (1973年没)
- アンティオコス2世テオス (紀元前246年没)
- Ariobarzanes II of Cappadocia (紀元前100)
- Ariarathes I of Cappadocia (紀元前321)
- マルクス (476年没)