HISTORICAL PERSON · 1142年没

ピエール・アベラール

中世フランスの論理学者・神学者。パリで教師として名声を博し、唯名論学派の創始者として知られる。スコラ学の基礎を築いたとされ、弟子エロイーズとの恋でも有名で、公会議で異端とされた。

生涯
1142年没
死亡地
フランス共和国(ソーヌ=エ=ロワール県 / シャロン=シュル=ソーヌ)
出生地
フランス共和国(Le Pallet)
出典
世界地図
フランス共和国(ソーヌ=エ=ロワール県)

伝記

ピエール・アベラールは、1079年にナントに近いパレで生まれ、1142年4月21日に没した中世フランスの論理学者・キリスト教神学者である。後にトマス・アクィナスらによって集成されるスコラ学の基礎を築いたとされ、「唯名論」学派の創始者として知られる。若くして音声言語論者ロスケリヌスと実在論者ギヨーム・ド・シャンポーに師事し、やがてパリのノートルダム大聖堂付属学校で神学と哲学の教師となって、非常な名声を博した。

1117年頃、ノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪エロイーズを知った。容貌がよく学問にも優れ、国内で評判の女性であった。アベラールは魅力を感じ、フュルベールに住み込みの家庭教師となることを申し出た。20歳以上年の離れた二人は熱烈な恋に陥り、やがてエロイーズは身ごもった。アベラールは彼女をひそかにブルターニュの妹のもとへ送り、そこで男の子アストロラーベが生まれた。叔父のフュルベールは激怒したが、アベラールは和解を申し出て秘密の結婚をした。ところが叔父が条件を守らず、エロイーズを虐待することもあったため、彼女をアルジャントゥイユ修道院に移した。これに怒ったフュルベールは縁者に命じてアベラールを襲わせ、去勢させた。実行犯の二人は捕らえられて処罰された。事件の後、アベラールはパリを離れてサン・ドニ修道院で修道士となり、エロイーズもアルジャントゥイユの修道女となった。

アベラールは学問では自説を曲げない性格で、誤りと思えば師でさえ罵倒して論破したため、碩学でありながら多くの敵対者を生んだ。サン・ドニでは、創設者聖ドニが『使徒行伝』のアテナイのディニュシオスと同一人物だという通説を論破して、修道士たちの怒りを買った。最初の『神学』で独自の三位一体解釈を示すと、1121年のソワッソン公会議で問題とされ、その教説は異端宣告を受けた。その後は自ら修道院付属学校を開いて教え、1125年には招かれてブルターニュのサン=ジルダ=ド=リュイス修道院の院長となった。1132年頃には、エロイーズとの恋を含む自らの生涯を振り返る書簡を友人あてに記している。のちにエロイーズはパラクレトゥスの敷地に女子修道院を建て、その院長となった。

再びパリに戻ったアベラールは、神学上の問題をめぐってクレルヴォーのベルナルドゥスらと対立し、1140年から41年のサンス公会議で異端とされた。この破門は、ペトルス・ウェネラビリスの仲介やアベラール自身の老いによる健康の悪化などから実行されなかったが、その取り消しが広く知られることはなかった。晩年はクリュニー修道院で過ごし、療養先のサン・マルセル修道院で生涯を閉じた。遺体はエロイーズの願いでパラクレトゥスに葬られ、1164年に彼女が亡くなると同じ墓に納められた。

アベラールは、信仰への疑問に答えるのに必要なのは力ではなく理性だと繰り返し主張した。対立する権威の見解を突き合わせて真理を導こうとする『然りと否』の手法は、当時一般的ではなかったが、弟子のペトルス・ロンバルドゥスらがこれを穏健化して受け継ぎ、スコラ学の学問的基礎が成立した。普遍論争では唯名論者に位置づけられるが、この呼称は死後の12世紀後半に与えられたもので、実際の主張は複雑である。事物が普遍であることは否定した。二人の往復書簡集は、日本でも『アベラールとエロイーズ』として読まれている。

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