伝記
ヨハネス2世コムネノスは、1087年9月13日に生まれ、1143年4月8日に没した東ローマ帝国コムネノス王朝の第2代皇帝である。在位は1118年から1143年までで、王朝初代のアレクシオス1世コムネノスの長男にあたる。「カロヨハネス」、すなわち「善良なるヨハネス」と讃えられた。
生まれたとき、父は前王朝のドゥーカス家との関係を考えて、皇后の実家の血を引くコンスタンティノス・ドゥーカスを長女アンナ・コムネナの婚約者、帝位継承候補として扱っていた。さらに、兄イサキオスを差し置いて即位した負い目から、イサキオスの息子ヨハネスも候補としていた。有力貴族らの反発を恐れて、父はすぐには彼を後継者と定めず、共同皇帝に戴冠されたのは1091年から1092年の間とされる。1118年、父の死期が迫ると、姉のアンナと母エイレーネーはアンナの夫を後継に立てようとした。それを知ったヨハネスは、父の死の前に急いで大宮殿へ赴き、即位の既成事実をつくらなければならなかった。父は皇帝の指輪を託して即位を命じたとされ、宮殿に戻った際には、母の命を受けたヴァリャーグ親衛隊に一度入宮を阻まれたが、指輪を見せて通されたという。
即位後もアンナは夫を帝位に就けようと、皇帝を暗殺するクーデターを計画した。しかし夫のニケフォロスが優柔不断であったために失敗に終わった。ヨハネスは姉を殺さず寛大に処したので、民衆の尊敬を集めたという。アンナは母とともに修道院に入り、夫が書いていた父の伝記を夫の死後に引き継いで『アレクシアス』として完成させ、世界史上でも稀な女性歴史家となった。
賢明で思慮深く誠実で、精神の強い人物であったヨハネスは、帝国の再興のために倹約して無駄な支出を抑え、父の政策を継いで軍事力を立て直し、対外政策に力を注いだ。ヴェネツィア共和国との争いでは敗れたが、北方では侵入と掠奪を繰り返していたペチェネグ人を壊滅させた。これは1122年のこととされ、捕らえられた多くの者は兵士兼農民として帝国内に住まわされた。東方ではルーム・セルジューク朝に占領されていた地を含む小アジアの領土の多くを回復し、1136年にキリキア・アルメニア王国を滅ぼし、1137年にはアンティオキア公国を屈服させた。こうして帝国を東地中海の強国として蘇らせた。内政では父の貴族優遇を踏襲しながら、トルコ人出身のヨハネス・アクスークのように身分が低くても有能な者を側近に取り立て、貴族と官僚の均衡を図って国政を運営した。西方では、南イタリアで勢力を強めるシチリア王ルッジェーロ2世を牽制するため、神聖ローマ帝国との同盟を重視した。
私生活では、1104年にハンガリー王女ピロシュカ(エイレーネーと改名)と結婚し、8子をもうけた。晩年は長男と次男に相次いで先立たれる不幸にも見舞われた。1143年、遠征先のシリアで狩猟の途中に誤って毒矢を自分に刺してしまい、臨終の床で三男イサキオスを退けて四男マヌエルを後継者と定め、56歳で没した。歴史家ニケタス・コニアテスは、彼をローマの帝位に就いたコムネノス家の諸帝の中で最上の人物と評した。現代の歴史学者も、歴代の東ローマ皇帝の中で屈指の名君とみなしている。
同じ年に亡くなった人物
- アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン (1143年没)
- ユーグ2世 (ブルゴーニュ公) (1143年没)
- エルメジンデ・フォン・ルクセンブルク (1143年没)
- ゲルトルート・フォン・ザクセン (1143年没)
- フルク5世 (1143年没)
同じ地域に関係する人物
- コスタンディン4世 (1344年没)
- Ruben III, Prince of Armenia (1187年没)
- Leo IV (1341年没)
- セレウコス6世 (紀元前93)
- ヘトゥム2世 (1307年没)